「お、渡部ディレクターじゃん」
出社のタイムカードを押すや否や、「ディレクター」にあらん限りの嫌味とからかいを込めた声で課長が声を掛けてくる。
「……おはようございます」
それだけ一言返し、スケジュールアプリを立ち上げ、本日中に終わらせる業務をピックアップし優先順位をつけていく。どうせ途中でイレギュラー対応に追われるのだから計画を立てたところで意味がないといえばそれまでなのだが、万が一にタスクの取り零しがあったら怖い。午前はデザイナーとの打ち合わせ、午後はコーディングとマーケティング資料の作成、売上予測の報告……。サブディレクターなんて聞こえはいいが、つまるところ社内外職種問わず好き勝手使われる役目でしかない。ディレクションとコーダーとマーケティングと渉外とその他諸々。一人の人間に任せて、もしその一人が倒れたら一体どうするんだろう。
「今日もやる気だねぇ、」
楽の背後から画面を覗き込んで、課長が言う。
「納期、迫ってきてますから」
「お、流石サブディレクター。次期主任!」
嫌味を隠す気もない言葉にいらっとくる。あからさまな持ち上げの裏側で、「そんなに頑張って何になるの」と薄笑いされているような。でも仕事を貰っている以上誰かがやらならなくちゃならない。頑張りにも満たない当然の責任だ。
「渡部が全部一人でやってくれるから、俺はもういらないよなぁ。なー、渡部ディレクター」
「え?」
そんな事ないですよって言うべき? でも以前そう答えたら、「思ってもないこと言うんじゃねえよ」って怒られたっけ――。考えてる間にも「まあ今日も頼むわ」と相手は肩を叩いて行ってしまい、後に残るのは微妙に冷えたフロアの空気だけ。
こういうとき冗談の一つでも返せたら、相手の反応もまた違うのだろうか。あるいは笑顔の一つや二つでも浮かべられたら。上手く関係を築きたい気持ちはあるのに、意図の読めないコミュニケーションに対応する術がわからない。なんて答えてあげたらよかった? そもそも何の為に話しかけた? 考え込む間にも時間は進むし納期は迫る。切り替えて、発奮よりも諦観で楽はパソコンに向き直った。
社会人三年目。肩書きだけは立派に仕事に追われる日々だが、別に毎日が午前様なわけじゃない。上司から言われる言葉もネットで見るようなぎょっとする程のものでなく、傍から見れば軽口を叩くようなもので、今時分恵まれてるくらいなのだろう。
けれど、不意に不安がよぎる瞬間がある。新卒の時漠然と思い描いていた「十年後の自分」なんて理想はとっくのとうに無くなって、ただ生きるために黙々と働き続けて、自分がどこを目指しているのか、何がしたいのかもよくわからなくなってしまった。よーいスタートで一斉に海に泳ぎ出して、ただ必死に手足を動かしている内にふと気付いたらゴールでもどこでもない、全く知らない場所に辿り着いてしまった時のような。
それが大人になるということなのだろうか。よしんば行きつく先があったとしても、それがあの課長だとしたら。批判でしか人とコミュニケーションが取れなくて、傷つかなくなる分人にズケズケものを言うことにも抵抗がなくなって。もしそうだとしたら、酷くむなしい。
煙に包まれたように漠然として見えない未来の先にあるのは、一体何なのだろう。