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 その日は部内の懇親会があった。参加したところで待っているのは上席からの説教だけだが、変に断ると余計に角が立つ。これも務めと腹をくくり臨んだ結果、見事にアルコールに負けた。
誰に何を言われたか、何を話したかろくに覚えていない。ただ、気がついたときには路地にしゃがみこんで動けなくなっていた。
「気持ち悪い……」
 店のネオンや街灯がやけに眩しく感じて、思考が散り散りになる。帰らなきゃ、と思うのに、シナプスがアルコールに侵されて立ち上がる気力が起きない。
 気持ち悪い。視界がちかちかする。胃が、中身を出そうと何度も痙攣する。立てた膝に顔を埋めて、喉元にせりあがってくる不快感をどうにか飲み下していたら、こつん、と足先に何かが当たった。こつこつ、と、続けて右足のつま先を叩かれる。
「……大丈夫?」
 低い声と共に、肩に何かが触れた。緩慢に頭を持ち上げる。目の前にいた人物に、楽は目を見開いた。
「朝の……」
 ネオンに負けない派手な銀髪、右腕のタトゥー。電車で倒れかけた楽を助けてくれたあの男が、目の前に立っている。つま先に触れていたのは男のスニーカーだった。ラインの入ったシンプルなスニーカーは、汚れた路地の上でひどく清潔に輝いて見える。
「大丈夫? 朝よりやばそうだけど」
「……気持ち悪い」
 取り繕う余裕もなく、楽は素直にそう答えた。肩に置かれた男の手に、無意識にすり寄る。ひんやりと心地よい感触に身を委ねていると、男がしゃがむ気配がした。脇の下を通って、背中に手を回される。
「とりあえず、歩ける? 吐きそうになったら止まるから言って」
「……すみません……」
 もつれる足を引きずるように動かしながら、なんとか謝罪を口にする。白昼夢のように現実感が薄れた視界の中で、「いいって、」と、小さく笑う男の横顔が見えた。
 男がどこを目指しているのか分からなかった。けれど、どこに向かっているのか尋ねる考えすら楽の頭からはごっそり抜けていて、ただ導かれるまま道を歩き、雑居ビルの階段を昇り、古いエレベーターに乗り込んだ。
 エレベーターの扉が開いた瞬間、鼻先を甘い匂いが掠めた。お菓子の甘さでも、香水でもない、少し香辛料のようなそれが、香の匂いだと遅れて気付いた。男が扉を開けると、一層強く香る。
「ここ、横になってていいから。荷物こっち置いとくね。具合はどう? 水飲める? 寒い? 暑い?」
 二人掛けのソファに降ろされる。玄関の真横にある小さな台所で忙しなく動く背を眺めながら、楽は矢継ぎ早にかけられた質問を反芻する。
「具合、は、悪い……けど、横になってちょっとマシになりました……。水、欲しいです。腹は熱いけど、背中は寒い……」
 医者に具合の悪さを伝えるときのように答えると、男がコップ片手に楽の方へと戻ってくる。ソファ脇のローテーブルに水が置かれ、次いでブランケットを掛けられた。
「水、ここに置いておくから」
 横たわった楽に目線を合わせて、銀髪の男は問う。
「ここ、何階か分かる?」
「四階……」
「違う、三階。俺は四階にいるから、何かあれば声かけて」
「はい……」
「具合良くなるまで、ゆっくりしていきなよ。……おやすみ」
 てのひらが、そっと楽の瞼に当てられた。やわらかな暗闇と温もりに眠気が押し寄せてくる。
次に目が覚めた時、財布もバッグも軒並み盗まれていたとしてもこの温かさと引き換えならそれでもいい。ほっと息をついた瞬間、楽は眠りに落ちた。 

 朝日の眩しさで目が覚めた。小さな窓から注ぐ六月の陽光に目をチカチカさせながら体を起こして、次の瞬間、広がる見知らぬ景色に飛び起きた。
「どこだ、ここ……?」
 体にかかっていたブランケットを剥ぎ取り、楽はソファに座り直す。昨夜の記憶がまるでない。道路を歩く自分の足と、背中に回された腕の感触だけはぼんやりと覚えている。
 部屋の中を見回したが、家主の姿は見当たらなかった。そもそも、誰かの部屋なのだろうか。楽がいる十二畳ほどの空間は、お洒落な友人の部屋らしい雰囲気をしつつも、どこか変に生活感が欠けていた。台所はあるけれど電子レンジや冷蔵庫などの一般的な家電が揃っていないし、打ちっぱなしのコンクリートには「ちょっとやりすぎじゃない?」というくらいにペーパーランタンが飾られている。今楽が使用しているものを含めて、二人掛けソファが四脚、シングルソファが三脚、サイドボードが同じ数分。家具といえばそれくらいで、あとはエスニック調の、用途不明な壺とホースが大量に部屋の隅に置かれていた。
 ふと、目の前の扉が開かれた。陽に曝された銀髪がきらきらとまぶしくて、楽は目を細める。
「起きた? おはよ」
「あ……!」
 男の姿を見て、昨日の記憶が一気に蘇ってきた。そうだ、酔いつぶれて歩けなくなったところを助けてくれた、あのタトゥーの人。
 一度ならず二度も助けられた事実にじわじわと気まずさと申し訳なさがこみあげて、楽は勢いよく頭を下げた。
「体調はどう?」
「少し、二日酔いだけど大したことは……じゃなくて、あの、すみませんでした……!」
 楽の狼狽ぶりを見た男は、なんでそんな大げさに、とでも言いたそうに眼を丸くした。
「朝も助けてもらったし、夜も……あの、家までお借りしたみたいで……本当すみません、ご迷惑おかけしました」
「いいよ。家じゃなくて、店だし」
「……お店?」
 男は台所の冷蔵ショーケースからトニックウォーターを取り出し、ポータブルラジオの電源を点けた。控えめに流れはじめた音楽に微かに体を揺らしながら、「そう」と短く答える。
「なんのお店だと思う?」
 楽にウィルキンソン(瓶だ!)を手渡して、男は向かいのソファに腰掛ける。改めて部屋を見渡したが、布張りのソファばかりが目に付く内装にまるで見当がつかない。どことなく中東を思わせるアイテムの多さ、加えて、部屋の隅にある奇妙な瓶とホース。に、一瞬よからぬ想像が頭をよぎった。具体的に言うならば、洋画でたまに出てくる白い粉を燃やして瓶から煙を吸入するあのシーン。目の前の男のような、耳に穴をあけた人が白い粉を燃やしてトリップする、あの。
「……マッサージ屋さん?」
 なんとか絞り出した答えを口にしたら、男が噴出した。
「残念、惜しい」
 嘘つけ。今の反応、百パーセント空振ったときにしかしないだろ。
「え、なんだろ……全然分かんない」
 まさか本当に怪しいお店だったらどうしよう。楽が腰を浮かせたのと同時に、男が小さなカードを差し出した。厚手のクラフト紙に目を落とす。『shisya&Ber〝ROOM〟店長 三浦昭宗』という簡素な紹介文と、簡単な地図が書かれていた。
「シーシャバー……の、店長さん?」
「そう。水たばこってわかる? それのこと」
 昭宗が部屋の隅にある、あの魔法具のような奇妙な物体を指す。
「ああ、あれ水たばこの道具だったんだ……なんか、インテリアの瓶かと思ってました」
「ぱっと見で使い道わからないもんね」
 頷いて、昭宗はふと立ち上がり、台所に向かいながら「食欲ある?」と楽に問うた。二日酔いの頭痛は残るものの、胃の不快感は消えている。戸惑いつつも頷くと、男は炭酸水が入っていた冷蔵ショーケースから小鉢を二つほど取り出してこちらに戻ってくる。
「ただの酔っぱらいならわざわざ介抱しないけどさ、朝会った人間が夜道端で蹲ってたらさすがに声掛けるじゃん? ――や、ただの酔っぱらいで良かったよ。病気とかだったらヤバいなって思ってたから。朝も起きないようなら救急車呼ぼうと思ってたし、何もないみたいで安心した」
「本当に、朝も夜も助けていただいてすみませんでした」
「いいよ。正直めちゃくちゃ面白かったし。助けた鶴が罠にかかった状態で恩返しに来た感じ?」
 吊りあがった薄い眉とは対照的に、柔らかく垂れた目元が笑みを刻む。銀髪も右腕に刻まれた刺青も、耳に幾つも開けられたピアスの穴も、それだけ見れば派手を通り越してえげつないのに、穏やかな物言いとしぐさがそれらをちょうどよく希釈している。ああだから、電車で声をかけられた時も不信感を抱かなかったのか。この声で読み聞かせされたらすぐ眠れるだろうな、というまろやかな声音に似合う静かな動作で、昭宗は持ってきた小鉢にかけられたラップをはがす。中身はリンゴとサニーレタスを和えたサラダだった。
「お通し。昨日のだけど、よかったら食べて。遠慮しないでいいよ」
 紙のおしぼりで手を拭きながら、楽のためらいを見透かしたように昭宗は言った。
「もしかして、リンゴ苦手?」
「いや、好きです。すみません、いただきます」
 首を振り、慌てて箸をつける。介抱してもらって、寝るところも貸してもらって、更に朝食までいただいてしまっているこの状況、図々しすぎやしないだろうか。いくら相手の好意と言ったって、ここは固辞するところだったかもしれない。そう思いつつも、二日酔いの不快感が拭われるような果物の瑞々しい甘さに、自然と箸が動いた。レモンとコショウで味付けただけのシンプルな食べ物だからこそ、さっぱりして胃に優しい。細かくちぎられたレタスを口に運びながら、そういえばしばらく野菜食べてなかったなぁと最近の自分の食生活を振り返る。
「うまい……」
 思わずそう零せば、目の前の顔がほころんだ。
「本当? 無理して全部食べなくていいからね」
「はい。すみません、部屋だけじゃなく、朝ご飯までいただいてしまって……」
 男はかわらずからりと、「いいって」と手を振る。
「あの、炭酸水も、これも……お店のものですよね? すみません、お金払います」
「え、いいよ、そんなつもりじゃないし。サラダは昨日の余りもんだし、このまま残しといても廃棄するだけだったから。むしろロス減らしてくれてこっちが助かった」
 てらいない言葉に、昭宗がこういった親切に慣れていることを何となく察した。朝の電車の件もそうだ。自分の時間を相手に与えることに抵抗がない性格なのかもしれない。
「あの、何かお礼させてください」
「お礼つってもなー、」
 楽が申し出ると、ざりざりと顎をさすって首を傾げる。見返りで困るあたり、本当に親切を働いたと思っていないらしい。昭宗はしばらく唸った後、何か思いついたのか「あ」と小さく声をあげた。
「ライン教えて」
「えっ」
 あっけらかんと言われた言葉に、思わず間の抜けた声が出る。いや、別に困りはしないけれど。でも俺のLINEなんか知ってどうするんだろう。ちらりと部屋の隅の怪しいアイテムを見る。シーシャ屋って言っていたけれど、もし、万が一、アレがソレでホニャララだったら? だって言うじゃん、はじめは友達からの誘いでって――。
 楽が動揺していると、昭宗はいやぁ、と頭を掻いた。
「うちの店、人出足りなくてさ。今度ヘルプに来てくれたらすげー助かるんだけど……」
「ああ、なるほど……」
 無意識に詰めていた息を吐く。
「え、でも俺、多分全然役に立たないですよ」
「いいよ。接客と掃除とレジ締めだけしてくれればいいから」
 結構多いな。
「まあ、軽いバイトだと思ってさ。それでどう?」
「……わかりました」
 お礼を申し出たのはこちらなのに「それは嫌です」なんて答えるわけにもいかない。楽が頷くと、昭宗は「やった」と顔に似合わず無邪気な表情で笑った。
「じゃ、今度連絡するね」
「はい。あの、本当にありがとうございました」
「だからいいって。じゃ、気をつけて」
 店の入り口まで見送ってくれた昭宗に再度頭を下げて、六月の眩しい太陽が照らす道路に出る。

 人の少ない土曜の街を歩く。

 

 会社の人でも学生時代の友人でもない奇妙な知り合いが、楽にできた。
 

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