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 詰め放題の野菜ってこんな気分なのかな。満員電車に乗る度、楽はそう思う。
 ひしめく人、人、人。ピーク時の乗車率が二百パーセントを超えるこの路線では、座席はおろか吊革すらも争奪の対象になる。空いたと思った時にはもう遅く、既に誰かが輪の縁に手を掛けている。掴まる物もなく不安定な体勢のまま、じっと腰に力を入れて耐えるしかない。
 社会人になってから三年目を迎えたが、この列車の混雑にはいつまで経っても慣れそうになかった。子供が二、三人入りそうな大きさのスーツケース、中身をぎゅうぎゅうに詰めたノースフェイスのリュック。さっきから「リュックは下ろすか前に背負え」ってアナウンスしてるだろ。ああほら、よく見たらチャック開いてるし、今にもスリに遭うよ、危ないから降ろした方が絶対いいって。文句とも心配ともつかぬことを考えていたら、細いピンヒールにつま先を踏みぬかれた。思わず漏れそうになった悲鳴を慌てて飲み込む。
『……本日もご利用いただきありがとうございます。この電車は急行押上行きです。次は渋谷、渋谷――』
 ぷつんと不意にアナウンスが途切れ、けたたましい金属音と共に列車が大きく揺れた。車内の人間が一斉に雪崩を起こし、ギリギリでバランスを保っていた姿勢がいとも容易く崩される。
 やばい、倒れる――吊革を掴もうととっさに右腕を伸ばしたら、誰かに手を取られた。
 ぱっと視界に飛び込んできたのは、白とも銀ともつかない髪の毛。それから腕に刻まれた精緻なタトゥー。相手も咄嗟の行動だったのだろう、若干の焦りをうかべた瞳と目が合った。え、と思う間にも腕ごと引っ張り上げられ、座席横の手すりに案内までされる。
「大丈夫?」
「はい。あの、ありがとうございます……」
 ヤクザ? ヤンキー? わからない。でも男はにこりと人懐こい笑顔を浮かべて、「この時間帯やばいですね」と楽に囁いた。まるで知り合いに話しかけるように、サラリとしたフランクさで。
「今日は雨だから、特に酷いです」
 だから楽もつい、そう返した。
「あぁ、なるほど。梅雨ですもんね」
 低い、周りに配慮した声音で男は頷く。
「普段乗らないから、びっくりした」
「スマホ出す隙間もないですよね。……普段は、もう少し遅い時間に?」
「いや、自転車です。家と職場が近いから」
「そうなんですね……」
『お客様にお知らせ致します。只今停止信号が入りました。信号が変わり次第発車致します。繰り返します、只今停止信号が……』
 慌ただしく入ってきたアナウンスに雑談は打ち切られ、程なくして電車が動き出す。人の波に押されるようにしてプラットホームに着いた時には男の姿は無く、ただ、洪水のような人の群れが普段通りの景色としてそこにあった。

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