top of page

 おもちゃの指輪が好きだった。

 偽物でもうつくしいって、はじめて教えてくれたから。

 

「8センチは君を受容しない」

 先生にそう言われたとき、僕ははっきり傷ついた。かつて一度も、先生が言う言葉には嘘や迷いがなかったからだ。もしもそのとき、先生がわずかにでも唇を舌で湿らせたり、細い足首を飾るヒールパンプスのストラップから目を逸らしていたりしたら、僕は思い切り笑って、それから先生にくちづけただろう。‘先生、なんて可愛いの!‘と、今日の日差しのように、溌剌とした無邪気さで。

 夏至前の海は青よりも緑が濃い。学校から遠く離れた人のいない海辺の街に、僕と先生は毎年決まって旅行に来ていた。19時過ぎ、太陽がようやく水平線に近づく時間になると、先生は必ず僕を海に誘って浜辺を歩いた。夕焼けと日没のあわい、町全体が海に沈んだように真っ青になる瞬間を見たいのだそうだ。塩辛い水のフィルターを重ねた砂浜、遠くに見える街並み、沈みかけの船。それら全て、ぼくの目にはターコイズとして映る。ブルーモーメント。世界の色が均一になるから、今が夜明けなのか夕暮れなのかわからなくなる。

「背が伸びただろう」

 先生の目には青く透き通って見えているであろう、浜辺の小さな貝殻をヒールで踏み潰しながら、ぼくは先生の言葉を聞いていた。

「どのくらい伸びた?」

「去年と比べて、4センチ」

「成る程」

 先生がうなずく間にもぼくは大人になっていく。文字を覚え、数字を覚え、目に見えないあらゆるものの輪郭を知るたびに、僕は8センチのヒールから離れていく。

 少し先を歩いていた先生が、僕のところへ戻ってひざまづいた。足首のストラップを外し、ヒールの高い靴を脱がせる。25.5センチ。これ以上大きなサイズのパンプスは、僕と先生の住む田舎には売っていない。

「大人になったんだ」

「それはすごく哀しいことのように思います」

「背伸びをしなくても私の隣で立てるようになったってことさ」

「それは……」口の奥で、砂がじゃり、と歯に擦れ、旅をしているなと思った。

「それは幸せなことのように思います」

 でも先生は少年愛好家じゃないの、と僕が聞くと、先生は大声をあげて笑った。それから脱がせた僕の靴を、海に向かって思い切り投げた。

「誰しも子供の自分を持っているんだよ」

「先生も?」

「勿論。体は覚えているんだ。子供だった頃の記憶を。雄弁に、鮮明に。君だって覚えているだろう」

 急に、塩辛い海風が吹いてきた。太陽は水平線の縁に密色をひとさじ残すだけとなった。黄金の線を見て不意に思い出す。遠い昔の夏。遊び疲れた僕の髪を梳く母の手櫛。どうして今まで忘れていたんだろう。風にさらわれた帽子を捕まえてくれたあの人、あの人、先生。まだ学生だった頃の先生。

 僕の耳は潮の香りを捕まえ、僕の掌は木々のさざなりを見つめ、僕の瞳は貝殻の細やかな凹凸を聴く。

 体は覚えている。

「僕、これからどんどん綺麗を忘れていく」

「流れることそのものが美しいんだ。君は変遷していく。その時々の君がいる位置、座標。それら全てを繋げたとき出来上がる曲線が美しいんだ」

 さあ、と先生は手を出す。ヒールを履いていなくても、僕と先生の目線の距離は近い。

「歩こう。常に動き続けよう。タバコのフィルターの火のように」

「動く点Pのように?」

「そう!」

 先生が駆け出し、慌てて僕も跡をおった。砂浜に刻まれた足跡を波があらう。先生の帽子が風に飛ばされる瞬間を待って、僕は手を伸ばす。

bottom of page