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 ぱきん、と小気味良い音を立てて、氷が割れた。
 八等分した板氷をひとつ手に取り、アイスピックをざくざく突き立てて細かく割っていく。氷を抱える手はきんと冷えているが、出勤前の気怠い体にはそれが心地よかった。つめたさによって、体が段々店の雰囲気になじむ気がする——あくまで、自身の感覚の話だが。
 数あるバーの開店準備の中で、クロは製氷作業が一番好きだった。黙々とやれるし、綺麗に揃った丸氷を眺めるのは達成感がある。色々な仕事を広く浅くこなすよりも、一つの作業を集中してやるほうが得意だ。カクテル作りの技術と話術、両方が求められるバーテンダーには向いていない性格だという自覚はあるが、今更変えることも難しい。
「サト。掃除終わったらボトル磨くの手伝ってほしい」
 作業を一通り終え、ホールの奥で掃除をしている同僚のサト——里中紘に声を掛けた。
「わかった。もう終わるよ」
 頷いて、サトは清掃道具を片付けてからバーカウンターの中へ入った。ウイスキーボトルを並んで磨く最中、ふと声を掛けられる。
「あのさ、クロ」
「なに」
「おれの恋人になってくれない?」
 コンビニ付き合ってくれない? のテンションで、そう言われた。

 ++++

「なあ、二人が付き合ってるって本当⁉」
 開店するや否や、カウンターがすべて埋まるほどの客に囲まれた。
「ブログで見たんだけどよー、お前ら言えよな。全然気づかなかった」
 常連客の一人である武田がスマートフォンをクロとサトに見せてくる。画面には『Bite公式ブログ』の最新記事が映し出されており、ニコニコ王子様フェイスで完璧に微笑むサトと、目が開いてんだか閉じてんだかよくわからない、べにゃっと不愛想な顔の自分がいた。
「はは……。まぁ、隠してましたからね」
 自身の素材の悪さに乾いた笑い声が出たのを、武田はお付き合い発表の照れ隠しと受け止めたらしい。プロテインによって構成されたバルクな腕でクロを小突き、「で、どっちから告白したんだ?」とにやついた。
「おれから告白して、OKもらえたんです。な、クロ」
「え、ああ、うん、そう、そうです……」
 さらりと解答権を奪って、サトが余裕の滲む微笑みで答える。ぐっと腰を抱き寄せられ、慌ててクロも笑顔を作った。オーディエンスの客たちはわあっと色めき、「やっぱ若いカップルって目の保養ね」「今まで我慢してたから、これからは堂々と付き合えるって嬉しいんだろうね」「よかったねぇ」と口々に祝福を述べた。ぐさっと良心が傷んだが、しょうがないと湧き上がる罪悪感を呑み込む。店をやっていくための期間限定の関係だから、今だけは騙されてくれ……。心の中で十字を切った。
「なあ、もうセックスした?」
前言撤回。破産するまで毟りとってやる。
「内緒。クロ、そういうの嫌がるから」
「じゃあせめて告白の再現! お願い、サビだけ!」
「頼むよ、枯れた人生に潤いをくれよ」
「そうそう、せっかく報告してくれたんだから、根掘り葉掘り教えてもらわなくちゃ」
「え、ええ……っ」
 武田に続き、他の常連客も餌を求める雛のような必死さで懇願してくる。あまりの食いつきの良さに、クロは内心驚きを隠せなかった。店長が『バーで一番盛り上がる話題は恋愛だ』と言っていたし、普段店を回していても客同士が恋愛話に花を咲かせていることが多いとは認識していたが、まさかここまで効果があるとは。
「場所は? 時間は?」
「どんな雰囲気だったの?」
「え、ええと、場所、はですね、その……」
 どっと冷や汗が吹き出る。どうしよう。付き合うまでのストーリーはサトが考えてくれていたが、告白の再現なんて打ち合わせしていない。
隣に視線を遣り、無言でサトに助けを乞う。サトは任せて、と言わんばかりにウインクを返してきた。洋画のヒーローみてぇ。
「……クロ」
 すっとサトが笑顔を引っ込め、低く落とした声で名前を呼ぶ。深い響きを持った声音に、心臓がばくんと大きく膨らんだ気がした。
「おれ、クロといるときすっごく楽しい。毎日クロのこと考えてる」
 指先がクロのおとがいを捉える。長い睫毛に覆われた瞳を一瞬伏せた後、サトは真っ直ぐにクロを見つめて言った。
「好きだ。昴。おれと付き合ってほしい」
 突然名前を呼ばれ、全身が沸騰しそうになった。
「へ、ぇあ……よ、よろしく」
 裏返った声で何とか頷くと、サトの顔がぱあっと明るくなった。
「おれ、今すっごく嬉しい……っ」
 がばっと抱き着かれ、「ぶにゃ」と踏まれた猫みたいな声が出る。
サトは腕の中に納まったクロを慈愛の籠った眼差しで見つめ、そっと唇を寄せてきた。
「へ、ちょっと待っ……⁉」
 急激に狭まる距離に思わず目を瞑ると、ぱっとサトが離れていく気配がした。
「こんな感じ。って言っても、そんなしっかり覚えてないけど……」
「へ、……え?」
 ぽかんと呆けるクロの横で、武田達が「えー」と一斉にブーイングを送った。
「キスしろよー」
「お断りします。恋人のかわいい顔はそう易々見せるものじゃないですよ」
「え、ええ……っ?」
 混乱して疑問符を浮かべ続けるクロに、サトが含みを持って囁いた。
「期待した?」
「っし、てねーわ! 人前ですんなよ馬鹿野郎!」
「あはは、サービスサービス」
 へらっとサトが笑う。
「照れてるクロ、珍しいな。いつも冷静沈着って感じなのに」
「うんうん。なんだか新鮮。サトくんも普段より更に王子様モードにブーストかかってて、素敵~」
 武田達がきゃあきゃあと盛り上がる。
窮地を上手く切り抜けたのだろうが、なんだかひどく弄ばれた気分だ。釈然としない気持ちでサトの背を小突くと、そつのない笑顔を返された。
「お前ほんと最悪」
「ほら、サトくんが揶揄うからクロくん怒っちゃったじゃん。謝りなよ」
「くーちゃん、ごめんね?」
「仲良くすんな。……お前ちょっとこっち来い」
 余裕綽綽に微笑んでいるサトがどうにも気に食わなくて、バックヤードに引っ張る。
 サトはきょとんとした顔でこちらを見つめている。中指で眼鏡のブリッジを押し上げて、クロは溜息をついた。
「お前さ、打ち合わせに無いことするなよ……。 キスとかしないって言ってただろ!」
「別に本当にキスしたわけじゃないし、いいじゃん。お客さん喜んでたし、アドリブなんだからしょうがなくない?」
「だからってあんなの毎回されたら対応しきれない! お前は経験豊富だからいいかもしれないけどさ。見ただろ、俺のポンコツ具合を」
「ああ、うん、可愛かった」
「真面目に聞け」
 サトが馬鹿にするようにくすっと笑む。それすらも様になっていて余計にむかついた。
「お前の気まぐれなからかいのせいでビジネスカップルがばれたらどうするんだよ」
「でも、実際ラブラブな雰囲気作らないとカップルやる意味なくない? 慣れてもらうしかないって」
「それは、そうだけど……」
 もっともなことを言われ、ぐっと言葉に詰まる。確かにクロが慣れればそれで済むのだが、やろうと思ってできれば苦労はしない。
「お前の言うことは確かにそうだけど……もうちょっと俺のペースに合わせてほしいっていうか、お願いだからお手柔らかに頼む……」
 このままじゃあ心臓が持たない。刺激の強さに、そのうち口から内臓を吐いてしまう未来が想像できる。
 嘆願すると、サトは少し考えた後、やにわこちらへ手を伸べた。
「……何、してんだよ」
 問いには答えず、サトの親指が頬に触れた。クロより背の高いサトの影がかぶさって、視界が一段暗くなる。
 翳った視界のように、サトの雰囲気が一段深い所に沈んだのを感じた。少しずつ、サトの顔が近づいてくる。
 触れられている頬が熱い。目の前にあるサトのまつ毛が長い。いい匂いがする。五感から膨大な量の情報が脳みそに伝わり、頭が真っ白になる。尚も距離を縮めてくる気配に、クロは咄嗟に目を瞑った。
「…………?」
 二秒、三秒、十秒……しばらく硬直が続き、クロはゆるゆると瞼を開いた。鼻先が触れ合うほどの距離で、サトはなんだか曖昧な表情をしていた。ぐっと眉を寄せて、頬を強張らせて、いわゆるそう、まるで、笑いをこらえているかのような。
「~~~っお前なぁ! 何なんだよ!」
「はは。練習、練習。かわいいね、くーちゃんは」
「仲良くすんな!」
 またもや揶揄われたのだと気付き、首を振ってサトの手から逃れる。ぶん殴りたい気持ちをぎりぎり抑えてバーカウンターの中に戻った。
眉を吊り上げたクロを見て、オーディエンスは「喧嘩したんだ」「痴話喧嘩だ」「きっと、夜の実権はクロくんが握っているのよ」と好き勝手憶測を述べ、きゃっきゃと楽しそうに笑った。どいつもこいつも、人の心が無いのか。

 

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