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 満月が真上に来る頃、ハインリヒは帰って行った。そのまま暫くメインエントランスでアインツの帰りを待っていたけれど、彼女が現れる気配は一向になかった。

 時計が一回りする頃、諦めて立ち上がった。仕事が長引くのはままあることだ。部屋に戻ろうとしたけれど、アインツとの事を思い出してやめた。今は何だか、アインツに関するすべてが罪悪に感じて、逃げるようにしてホールに足を踏み入れる。

 少女たちのお喋りはいつもの通り、高い細波のようだった。沢山の声が高い天井に反響し、重なり、寄せては返す。午睡の夢に見る光景だ。

「こんばんはツェツィ、今日はアインツと一緒じゃないのね」

 名前も知らない少女が話しかけてきて、返答を待たずに消えていく。するとすぐに別の少女が顕れて、なにか言葉を囁いて霧散する。音はどこまでも消えることなく響き続けて空間さえも惑わせる。ここにアインツはいない。イオも遠くへ行ってしまった。私はひとりぼっちだ。彼女たちは個体ではない。現象である。ひとつという概念はここにはなく、ただあるものをかたちづくる組織として互いに影響し合っているだけなのだ。

 ここにアインツはいない。目を閉じて、音に身を委ねた。身体のあわいが溶けて、少女たちと交わる。

 ふと、もしかしたら、と、まどろみの中である考えが浮かんだ。アインツがもし、また光明街に行っていたとしたらどうしよう。そしたらまた私、ハインリヒにお願いしなくちゃいけない。

 溶けかけの思考が瞬く間に冴え渡っていく。じりじりと首の後ろが焼けるような心地を覚えた。いてもたってもいられなくなり、すぐにホールを飛び出す。立ち去りを咎める少女たちの響きは風の音に紛れて消えた。

 ホールとは打って変わり、メインエントランスは驚く程に静かだ。静寂は高い音を以て私を取り囲み、そのときに初めて寂しさの音を知る。

 一応、部屋を確認しておこう。私と、滅多に使っていないアインツの部屋のどちらにも彼女の姿が見つけられなかったのならば、いよいよアインツは光明街に遺されている可能性が高い。男に口説かれたのか自分から訪なったのかなんてどうでもいい、そこにアインツがいるのなら、私はちゃんと迎えに行ってあげなきゃいけない。

 エレベーターを呼び出して、おそるおそる五階まで上がる。廊下の突き当たり、見慣れた扉に手を伸ばした。

「……アインツ、」

 しんとした部屋に、私の声がよく通った。開かれた扉の奥、見慣れた半円アーチの窓と大型棺桶時計が見える。

「アインツ、隠れているのなら出てきて」

 カーテンの内側、乱れたベッドの一つ一つを見つめる。戯れに言葉を吐いても、いないのは分かり切っていた。ここにあるのは残滓ばかりで、本当のアインツの匂いはどこからもしないから。

 扉を閉めて、部屋を後にした。四階までの階段を下りる傍ら、じっとりと手のひらに汗を掻いていることに気付く。おかしいのはどちらだと、自嘲の念が込み上げた。鳴り響いて五月蠅い鼓動も首にへばりつく髪の毛も、アインツの事ばかり考えてしまうことも。本当におかしくなってしまったのはきっと私の方だ。けれどドクトルに診てもらったところで、きっともう、どうにもならないのだろう。

 四階に降り立ち、並んだ扉から一つを選んでノックをする。

「アインツ、居るの」

 扉の内側で動く気配がした。背筋が微かに粟立つ。

「アインツ、お願い、開けて」

 嫌よ、と扉越しに返される。ひどく弱々しい声だった。

「貴方、今朝のことをまだ気にしているの?」

 返事は無かった。代わりに暫くの後、鍵の開く音がした。ゆっくりと扉を開ける。蝶番が細い悲鳴を上げて軋んだ。

 アインツは部屋の真ん中に座り込んでいた。こちらに背中を向けている。私の部屋と全く同じ間取り。室内奥の半円アーチの窓は全開で、夜の潮の匂いが漂ってくる。

「……アインツ、」

 少女は振り向かない。

「どうしたの、これ」

 一目で、アインツが大丈夫で無いことを知った。私の足下から部屋の中心に掛けて、手のひらに少し余るくらいの細長い紙切れが散らかっている。紙幣だ。それも数え切れないくらいの大量が、アインツを取り囲むように円形に散らばっている。よく目を凝らせば硬貨らしき物もあった。色の褪せたもの、真新しいもの。くしゃくしゃになって何かすら分からないもの。それらは一様に天井を見つめ、海風に微か震えている。

「貰ったの」

「誰から、」

「光明街のジプシーと、わたしのご主人」

「貴方また光明街に行ったの、」噎せながら訪ねれば、アインツが振り向いた。人形の様な、つくりものの顔。化粧をしたのだろうか。真っ赤な唇が歪に撓っていた。

「アインツ。それが一体何だか分かっているの。それは私達には必要のない、醜いものよ」

 アインツは同じ顔で私を見続けている。瞳よりも、紅い果汁を含んだような口元が目立っていた。

「窓の外に捨てて」

「嫌よ、」

 アインツは立ち上がり、窓枠に腰掛けた。海風と混じったアインツの匂いが遠くの私に届く。

「ツェツィ、わたし、遠くに行くわ」

 がつん、と、側頭部を殴りつけられたような衝撃が走った。愕然としてアインツを見つめるけれど、柘榴の舌を覗かせるだけで彼女は言葉を続けようとしない。赤い色。海の青とは正反対の色。遠くに行った、イオのことが脳裏に浮かんだ。

「……どうして、」

「決まってるじゃない、」私の震えた声を、アインツが鼻で笑う。こんなアインツを私は知らなかった。

「孕んだの?」

「…………」

 アインツは答えない。赤い唇がより深い笑みを刻む。瞳は爛々と輝き、鉄を溶かしたような熱を帯びていた。

「アインツ。どうしたの、貴方、ここ数日おかしい。イオが孕んでから? ううん、多分、もっとずっと前」

「知ってる」声には自嘲が混じっている。「きっとわたし、アップデートでおかしくなっちゃったんだわ」

「でも、ドクトルは……」

「ドクトルなんて宛にならない。だって、わたし……ううん、わたしも、貴方も、もう機械じゃないもの、」

「……どういうこと、」

 アインツは答えず、代わりに光明街に行ったことある、と私に聞いた。背を向けて、遙か宵の大海を望む。

「光明街なんて、行きたくもない」

 吐き捨てるように返した。それは心の底からの想いだ。行ったら最後、きっと私もこの前のアインツみたいになる。ハインリヒは新しい家族を見つける。アインツは新しいツェツィを見つける。きっと誰も探しになんか来ない。私は本当の一人になる。

「わたしは行ったわ」アインツの肩は震えていた。笑っているのだ。普段は美しく清らかな物にだけ心を寄せるアインツが、今はどちらかも分からない愚かさを弄んでいる。囁くような声音も固く意志を持ち、聞いているだけでのぼせそうだった。

「貴方が知っているように、行ったわ。光明街にはね。いろんな人がいるの。港町の比じゃないわ。武漢の漢方屋、南の国から来た双子の少年、翡翠の瞳を持った片腕の少女。どれも貴方、見たことがないでしょう。そこには……光明街には、知らない物が沢山あった。殺されることも含めて。ねえ、ツェツィ。ここには何でも揃っているわ。貴方がいて、わたしがいて、わたし達のことが好きなあの人達がいる。でも、でも、ここに海はない」

「海ならあるじゃない、」

「ツェツィ、あれが海だって本当に信じているの?」

 月明かりの無い海はひたすらに真っ暗で、ただ波の音と潮風を響かせる墨だった。

「分からない。もしかしたら、ただの大きい湖かもしれない。ううん、誰かが水に塩を溶かして、端っこの方で波を起こしているのかもしれない」

「海よ。ちゃんとお船が出て、何処かに行くじゃない」

「光明街で作られたものかもしれない、」

「……」

「わたしは信じない。ツェツィ、わたしは信じないわ。自分の目で見たもの、手のひらで触れた物しか信じたくない。浜の細かい砂を踏んで、東国の故郷の匂いを纏って、塩水が体に張り付く感覚を信じたい。信じられるほどに、知りたいの。ツェツィ、一緒に行こうよ。きっと楽しいわ」

 風が強く吹き込んでくる。きっと今日は波が高いのだろう。アインツは今にも駆け出してしまいそうだ。こんな日に海に出ては駄目。きっと私たち、海に入った瞬間体中の機械が犯されて壊れてしまう。

「ツェツィ、貴方は分からない? 知らないことを知った怖さと、もどかしさを」

「分からない。明日も明後日も、一緒に寝ていればいいじゃない。家もある、主人もいる、これ以上何を望むというの」

「ツェツィ、一緒に外に出ましょう。ここじゃあ海には遠すぎる。港町も光明街も捨てて、海の向こうに生きましょう」

「どうしてそうやって醜いところに行くの、」

「今だってもう十分醜いじゃない!」

 髪を振り乱して、アインツが叫んだ。繊細な硝子細工の壊れる音がする。

「孕んだのは体じゃない、心よ」

 紙が、乾いた音を立てた。床に散らばった幾枚もの偉人の肖像画、私たちには必要のないそれ。

 少女の呟きは地面に落ちて消えた。白昼夢に混ざり込み、浮遊する私の心には言葉の曖昧な輪郭だけが残る。

 くずおれて、アインツが、一粒涙を流した。髪もお化粧もくしゃくしゃで、今にだって直してあげなきゃいけないのに、動く意志さえも生まれないまま眼前の光景をただ見つめていた。

「イオにね、聞いたの」目の前にあった硬貨を一枚拾い上げて、アインツは紡ぐ。

「お船に乗るにはね。お金が必要なんだって。それも沢山。わたし、どれくらいが沢山か分からなかったけれど、とにかく手当たり次第に貰ったわ。踊ったり、靴を磨いたり、相手をしたり……一日中。貴方の部屋を出て行ってから」

 つい数時間前のことが、随分昔の出来事のように思い出される。

「お金を貰ったのはね。ツェツィ、貴方と一緒に外に出たかったからなの。ハインリヒも私の主人もいない、ふたりきりのまんまで。今までは無理だって思ってた。外に出るなんて。でも、イオがママになって出て行くことが許されるなら、私たちだって同じはずだって、そう思ったの」

「でも私たちは、孕んではいないわ」

「一人を好きになったところは同じよ。子供を孕めずとも、宿す物は同じだわ」

 細い背中から吐き出される声。徐々に熱を失って、いつもと同じ囁きでアインツは訥々と語った。 

「私のことを好きなあの人はね。ハインリヒとは違うの。わたしは沢山の恋人の内の一人でしかなくて、あの人はわたしだけを愛してはくれない。わたしに対して辛く当たる癖に、わたしがどこかに行った途端に我が物顔をするのよ。ツェツィ、貴方はきっと、あの人のこと嫌いだわ。けれどどうしてかしらね。わたし、ひどいことをされればされるほど、きちんと機械でいれる気がするの。人形のように愛されて、人形のように微笑み続ける。それが私たちの使命で、義務で、仕事で、運命だったはずよ」

 それがどうして、今は。アインツはそこで言葉を切り、長く細い息を吐いた。

どこから歯車が狂い始めたかなんて分からない。けれど、ホールの少女達と私達は決定的にどこかが違うのだと確信していた。きっと少女達は、どんなにひどい扱いを受けても微笑み続けるのだろう。慈悲と溺愛のあわい、メガロポリスの歪んだ欲望が垣間見える。

「わたし毎晩、貴方に抱かれる夢を見る」か細い腕が、か細い彼女を抱き締めた。爪の先がきらきらと光っている。おそろいなのよ、と伝えたときにはしゃいで喜んだアインツの姿が、瞳のすぐ傍で瞬いては消えた。

「ツェツィ、貴方きっと、私のことを嫌いになるかしら。だっておかしいんだもの、醜いんだもの、わたし。ハインリヒを見るだけで、体の内側がどろどろとしていくの。オイルが汚れていく気がするの。ツェツィ。わたし、貴方と一緒に外に出たかった。わたしだけの貴方になって欲しかった。でも貴方は、ここに残るのを望むのでしょう。ツェツィ、わたしもう機械ぢゃないわ。でも人間にもなれないの。……わたし、これからどうなっちゃうのでしょうね。……わたし、貴方に愛されたかった」

はっとして、アインツの元に駆け寄った。腕を引いて抱き留めると同時に風が一際強く吹き込んできて、アインツもろとも外へ攫おうと吹き荒ぶ。部屋のカーテンがはためき、色とりどりの札が吹き上がり、硬貨は擦れ合って高い鈴の音を上げた。リボン、小さなネジ、玻璃翅蝶々の翅。私がアインツにあげたもの。それら全てが窓の外に閃いて、遙か遠くの海へ向かって飛んでいく。

 私はアインツだけをしっかりと掻き抱いて、その光景を見ていた。金の絹糸がゆるやかに天へと昇っていく。

「わたしあなたのことがすき、」華奢な腕が、私の背に回される。「けれど抱くか抱かれるかすら分からないこの身体で、どうやってあなたを愛せると云うの」

「嫌いになんかならない、」折れそうなくらい細い腰。温かい身体。娼婦着の裾が捲れて、少し馴染んだ縫合痕を晒している。

 アインツの云いたいことなんて、云われなくたって分かりきっていた。私、いくらハインリヒの元に行こうが心の底から愛されようが、同じだけの物は返せない。捧げる為の何かはとうにアインツにあげていた。私たちはとっくのとうに、機械ではなくなっていたのだ。起き抜けのぼんやりとしたアインツの甘やかさも、整える髪の艶めきも、アインツがいない部屋の、気が狂いそうなほどの寂しさも。

「貴方が他の男に抱かれる度、気が狂いそうになるの」

 肩口がひと雫分、熱くなる。アインツの涙だ。背に回していた腕を解き、アインツの頬に添えた。止め処なく流れる雫を親指で拭い、涙の筋に唇を落とす。

 目の前にアインツが居る。夕焼けにきらきらする海の色を湛えて、彼女は私を見つめている。

 月が白い。夜の終わりがすぐそこに迫っていた。じきに朝日が昇り、空は夕焼けと見紛う鮮やかな様相を映し出すのだろう。

 本当は何もかも、分かっていたのだ。今まで、気付かない振りをしていただけで。

「肉体のまぐわいが愛だと云うの。見返りのある行為が愛だと云うの。玻璃の水晶、蝶々の翅、ニコゲヤナギの新芽。そんな物、貴方の価値になんかならない。貴方をかたちづくるものは全て、私だけでいい。アインツ。私なら、何一つ証明する物がなくたって、貴方を愛することができるわ。海なんかいらない、綺麗なものなんかいらない、貴方がいればいい。お願いよ。私の、たった一人の、愛しい人」

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