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 数日して、イオはひっそりとマンションから出て行った。愛する主人と共に、私達の知らないどこか遠くへ旅立ったのだ。妻として、ママとして。マンションに住む少女達は口では何も言わなかったが、纏う雰囲気は大きく違っていた。今までは極度に主人に入れ込むことはなかったのに、皆ママになりたい一心でそれぞれのお得意様に甘えている。

 皆、本当は外へ行きたかったのかもしれない。言わなかっただけで、ずっと。

 アインツは呆とすることが多くなった。ひ弱で、私のことを面白くなさそうな目で見る主人に入れ込むことはない一方で、望郷の色を滲ませた瞳はいつだって飽きることなく海を見つめている。

大型棺桶時計が午後六時を告げる音で目が覚めた。いつも通りの景色が其処には在る。表向きは何も変わらない、私のほんとうのさいわい。

 目醒めた時、アインツは体だけ起こして窓の外を見ていた。外は既に宵闇の色で、水銀灯が大通りを照らしている。月夜に反射した金色の髪が眩しい。サイドチェストから大きめの櫛を取り出して、長い髪の毛に滑らせた。甘えたアインツが凭れ掛かってくる。甘やかさよりももっと深い、くるしいくらいの何かを感じた。今日も明日も、アインツは男の所へ行って、私はハインリヒに抱かれるのだ。

 アインツの金糸に、私の髪飾りを付ける。男の、面白くなさそうな顔が目に浮かんだ。

「今日はどこに行くの」

 アインツのトゥシューズもどきを磨く傍ら尋ねた。

「分からない」アインツは膝を抱えてつまらなさそうだ。

「愛しい人に会えるんでしょう。ご機嫌斜めなのね」

「会いたくないって言ったら、」

 アインツが、縋る瞳で私を見た。

「ツェツィ、貴方怒るかしら」

「……会いたくないって、どうして」

「胸がどきどきするの。のぼせる気のする一方で、体の奥からどんどん冷えていく気がするの。ねえツェツィ、これって、恋なのよね」

 何かを返そうとした唇は結局一つの言葉も吐けずに、空しく空気を取り込むだけに終わる。視線に耐え切れず顔を逸らして、甘えてくる体をどうにか引き離した。

「行かなきゃだめ」

「……どうして、」

「主人の所に行くのが、私たちの仕事よ」

 すぐ傍で、震える息の音を聞く。見れば泣きそうな顔をしていた。はじめて見る顔だった。アインツはしばらく何かを堪えるように唇を噛んでいたけれど、やにわ思いついたようにハッと顔をあげた。

「ツェツィ、」呼ぶ声は明るい。

「わたしおなかがいたいわ」

「……嘘言わないで」

「嘘じゃない」

「じゃあどう痛いって云うの、」

「……」

 何を伝えたいのか分からなかった。言葉の戯れは決して嫌いではない。けれど、すぐにでも身支度を整えて部屋を出なければならない今に限って甘えてくるアインツに、若干の苛つきを覚えた。

「熱もあるかもしれない。これじゃあお仕事にいけないわ」

「アインツ。私たちは病気しないの。わがままも言わないの。貴方の駄々はそう設計されている所為だって分かってはいるけどね。お仕事を放棄したら私達、ここに居られなくなるのよ。マンションを追い出されるの。そしたら私達生きていけないわ。ハインリヒや貴方の主人なしで、私達どうやって過ごしていけると云うの? お願い、どうか壊されない程度には、お仕事をしてね」

 衝動に任せて言葉を叩きつける。また、泣きそうな顔に戻っていく。

「マンションなんか……」

 叫びはすぐに尻すぼみになり、アインツの腕が力なく下げられる。

「……じゃあ、光明街にでも行けば」

 アインツはゆるくかぶりを振って、するりと私の腕から離れていった。背中を向けて、磨き上げた靴に足を差し入れている。

 胸に溜まっていた息を全て吐き出して、ベッドに潜った。しばらくして蝶番の細く軋む音が耳に届いて、アインツが出て行ったことを理解する。行為の後のように、どっと疲れていた。思考は冴えているのに、手や足の何処に力を入れればいいのか分らない。

 目の端に、半円アーチの大きな窓が引っ掛かる。下を見れば丁度マンションの扉が開いて、アインツが出てくる所だった。いつもは傍らにある機体を、今は見下ろしている。裏路地の細い角を曲がって、其の姿はとうとう見えなくなった。 

 アインツが居なくなった世界を眺める。程なくして、見慣れた白いシャツを着た男を大通りに見つけた。ハインリヒだ。少し乱れていた髪を整えて、エントランスに向かう。

「ハインリヒ、」

 最後の階段を下りると同時に、メインエントランスの扉が開かれた。ハインリヒは私を認めると同時に笑顔で駆け寄ってくる。

「窓の外から見えたの、貴方が来るの」

「そんなに待ち遠しかったのかい」

 抱き締められると、唇が鼻先に当たってくすぐったい。戯れに身を捩れば、深い香水の匂いが胸の奥まで立ち込める。ハインリヒの香り。

アインツの匂いは、こんなのじゃない。

「……ツェツィ?」

 突如動きを止めた私を見て、ハインリヒが怪訝そうに顔を覗き込んでくる。心臓に、ごく薄い氷を差し込まれたようだった。愕然としていた。私、今、何を、思ってしまったと云うのだろう。

「……なんでもないの、ごめんなさい」

「具合でも悪いのかい? ドクトルに罹った方がいい……嗚呼、」

 そういえば、とハインリヒが言葉を繋げた。

「さっき其処で、《アインツ》を見掛けたよ。あの子も具合が悪そうだった。肌が透き通っていないんだよ」

「……アインツに会ったの?」

「ああ。すれ違っただけだからよく見なかったけれど、玻璃の瞳を持っていたからきっとそうだ」

「あの子、どんな風だった? 泣いたりしていなかった?」

「……R.U.Rは、泣くのかい?」

 二つの鳶色が私を捉える。不可思議さを微塵も隠していない、純粋な問いを投げかける声。

「……泣かない、」知れず声が慄えた。

「どうしたんだ、ツェツィ」ハインリヒはいよいよ心配そうに私を労わった。純粋な好意には、平気の一言しか返せなかった。 

 平気な訳がなかった。今までアインツと喧嘩したことなんて、一度も無かった。先のことを思い出すと、世界がぐるりと半回転する錯覚を憶える。スポンジの床を踏みしめているようで、足元が覚束ない。

 ハインリヒは私を労わりながら空き部屋に連れ込んだ。いつも通りベッドに倒れても、どこか浮ついていて現実味がなかった。

 ハインリヒは主人だ。私が何よりも大切にしなくちゃならない、お得意様よりも大切な存在。

 けれど私さっき、脳のどこか片隅で、明確に彼を拒絶した。

「……アップデートの影響かな」

 ハインリヒが冗談めかして笑う。私もそうね、と微笑んだ。

 ハインリヒは私を抱かなかった。代わりに、子供をあやすように背中をさすられる。優しさに鈍い頭痛がした。

「同じマンションにね、イオという子が居るの」

 鳶色の瞳が、興味深げに開かれる。

「珍しいね。君が《アインツ》以外の話をするなんて」

「遠くに行ったの。子供を育てるには、この町は堕落しすぎているからって。」

「……遠く?」

 ハインリヒが首を傾げる。尤もだった。マンションに住むR.U.Rは全ての人々の憧れであり理想である。進んで出て行こうと思うR.U.Rなんて、今まで居なかった。

「おかしいわよね、あの子、孕んだって云っていたけれど。お腹が少しも膨らんでいなかったわ」

「孕んでからさほど時間は経っていなかったんだろう。そんなすぐには変わらないさ」

「機械なのに、子供のことばかり優先するのよ」

「母というものは、須らくそんなものさ」

「イオの味方をするの、」

「なんで、」ハインリヒは肩を竦める。「会ったこともないのに」

「マンションを出るなんて、あり得ない。私は絶対に嫌よ」

 語気を強めると、ハインリヒは何か合点がいったのかのように頷いた。それから少し笑う。

「別に、俺は君に母なれとは言わないよ」

 意外な言葉だった。ハインリヒの手はあやすように私の背に置かれている。

「じゃあどうしてこの間、ラブ・ドールの話をしたの。私、私に対する当てつけかと思った。どうせ貴方達だって変わらない、只の機械じゃないって――貴方、そんなこと云っていたじゃない」

「違うよ。確かにそう云ったけれど、僕が変わらないと思うのは生殖器官のことじゃあない」

「じゃあ何が変わらないっていうの。私達と、いにしえの人形と」

「君はプライドが高いな」

 ハインリヒの眼鏡が、室内の光を受けて僅かに光る。

「美しさだよ。ツェツィ、君達は美しすぎるんだ。《アインツ》を見つけた時に思ったんだよ。人格的に完璧な人間がいないように、完全な容貌の人間は滅多に現れない。大体、片二重だったりとか、唇が傾いていたりだとか、何らかしらの欠陥を抱えている。でも君らは違う。同じ位置に同じ形の瞳が、しっかりと嵌め込まれているんだ。ゾッとするくらい美しくて、不気味なくらいに、完璧に。こうして喋っていなければ、生きているかどうかすら分からない。……人間にはなれない。君達はどうやっても、人形と、同じだ」

 彼の言葉を聞いて、肩透かしを食らった気分だった。思わず口の端から笑みが零れ、それはやがて堪えきれない笑い声と取って代わる。脳裏でアインツのきらきらとした肌が瞬いた。

「当たり前じゃない、」

 極度の美しさには恐怖が伴う。美には一掴みの死が混ざっているからだ。

「私達は、美しくある為に生まれてきたのよ。あと人間に近づける所があるとすれば、それは醜さだけ。人間になれないんじゃない。ならないの、」

 人らしいなんてよく云ったものだ。髪を振り乱して笑ったり怒ったり悲しんだりすることは、そんなにも尊いのだろうか。私たちを作り上げたのは生身の女に辟易した人間達だ。不気味の谷を越える寸前で保たれた、均整優美なにくたい。

「人になることはすなわち、醜くなることと同じよ」

 私は安寧が全てだった。朝起きてアインツがいて、アインツと同じに働いて、アインツと共に眠れればそれでいい。壊れるまでずっと。誰かの為に心を悩ませるのなんて、美しくない。

「君にとってみたら、僕みたいな人は相当醜く見えるのかな」

「同じ女の子だったらね」

 ハインリヒが起き上がり、窓を開けた。涼しい夜風が吹き込んで、カーテンが弱くはためく。

「君は母になりたくない訳じゃないんだろう」

 ハインリヒがベッドに戻って、囁いた。蒼白い月光が、遠くの海を煌めかせている。この街の夜は静かに明るく澄んでいた。アインツ。

「アインツと離れたくないだけなんだ。違うかい、」

 言い当てられ、どうしていいか分からなくなる。そっと窺うように鳶の眼を見るけれど、湛えられているのは変わらずの愛情だけだ。

 「どうして分かったの、」

 自然拗ねたようになった私の声音を、微笑ましく子供を見守る親の温度で、ハインリヒは笑う。

「分かるよ。何度君と言葉を交わして抱いたと思っているんだ」

 くすぐるような手つきで、ハインリヒはそっと頬を撫ぜる。アインツよりも、少し低い体温。生きた血を持つ、赤ん坊で生まれてこれた人。

「貴方、私を怒るかしら」

「まさか。僕は君のそんなところが大好きだ。だから今までずっと一緒に居てきたんだろう。ツェツィ、君はきっと知らないだろうけどね。君はアインツの事を考えているときが、一番綺麗なんだ。僕に抱かせる傍らで、どこか遠くを見つめて何かを想っているその表情に、僕は惚れたのさ」

 だからどうか今のままで。祈るようにハインリヒは目を閉じて、私の手を握った。息苦しかった。ハインリヒがそう云ってくれる間にも、私はどうしたってアインツのことを考えてしまう。ハインリヒを愛しきれていない誠実でない心臓を、彼は咎めない。その事が何よりも苦しかった。

 私、イオのことを馬鹿にする権利なんてない。きいきいうるさくても、マンションを出て行ったとしても。母になりたくて一心に主人を愛そうとする彼女達こそ、私たちの本来の在るべき姿なのだ。

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もともと紙の本にして頒布したものなので、インド数字ではなく漢数字を使っています。

​サイトだとちょっと読みづらいかも。ごめんね。

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