マンションに人間は住んでいない。三階までが仕事場で、それから上は私達の住処となっている。私達は毎日、誰かを迎え入れるか迎えに行くかして、しめやかな夜の静謐を睦言で埋め尽くす。
空き部屋を確認して、適当な二階の角部屋にハインリヒを迎え入れた。扉を閉めた途端、ハインリヒの腕が私を絡めとる。向き合って、私も彼の腕に手を回した。
「起きたら、アインツが隣に居たわ。夢みたいだった」
ありがとう、と素直に口にすれば、ハインリヒは照れたように笑った。
「このぐらいだったら、いつでも」
「危ない目には合わなかった? その様子だと大丈夫そうだけど、怪我は無い?」
「平気さ」
室内はベッドとルームランプ、それから小さなチェストだけが置かれた簡素な造りだった。装飾も何もないシンプルな調度品だけれど、どれもつるりとなめらかで、美しい。
「彼女を探すのには骨が折れたよ。光明街と言ったっけ、あそこはひどいな。どこの道に入っても打ち捨てられたR.U.Rがわんさかといる。一体どれが《アインツ》だか見当もつかなかった」
「それでもわかったのね」
「水晶さ、」
ハインリヒは分厚い眼鏡を外した。「瑠璃水晶を大切そうに握りしめていた。それで分かったんだ」
玻璃水晶。その言葉に、かつてアインツが語った言葉を思い出す。玻璃の色だと、アインツは云っていた。
(わたしが夕焼けの海の人だとしたら。ツェツィ、貴方は夜の海の人ね。真っ暗でも、真っ青でもない、玻璃の髪の毛。確かに色付いているのに、向こう岸が見えるくらいに透明なの)
瞳の裏、記憶は簡単に像を結ぶ。蒼と黒のあわいで艶めく私の髪の毛は密かな自慢だった。真っ直ぐ床へと延びる一本一本は、ベッドに倒れ込むことによってわずかにうねる。細波と同じ形だった。
「ラブ・ドールという人形を知っているかい、」ハインリヒが、邪魔な枕をおしやる傍らで言う。やにわだった。
「君たちの前身だ。動きはしない。喋りもしない。温もりもない。使う時に好きな道具を嵌め込んで使うんだ」
「そんなもの、」下卑た台詞ごと見下すように、鼻で笑い飛ばした。
「機械ですらなかったと云うの。半世紀前は死姦がブームだったのかしら」
「君らだって、変わらない」
安い寝具は容易く軋む。月は欠けながら高くなる。私はハインリヒを仰向けに寝かせて、首筋に口づけた。零れ出そうな笑みを口内に押しやる。
「先日、八二回目のアップデートが完了したわ」
「…………」
会話の意図が分からないとでも言うように、ハインリヒが私を見た。鳶色の虹彩をしている。
「情報は電解水に混ぜられ、点滴として私達の体内に入り込む。それから、二四時間の休止状態を経てアップデートは完了する。ほら、見て。ここに注射針の跡があるでしょう」
左肘の内側、ごく浅い皮膚を晒す。ハインリヒは切なげに患部を撫でた。
「今回の内容は子宮内膜の更新、人工羊水の注入、子宮頚部、及び交感神経の発達化。それから細かいバグの修正」
「具体的には、どう変わったんだ」
ハインリヒの指先が、上に乗る私の体をまさぐる。滑る掌はしっとりと汗を掻きはじめていた。
唇を笑みの形に撓らせて、耳元に囁く。
「子供を産めるようになったのよ。私達、母になれるわ」
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R.U.Rはエル・ウー・エルと呼びます。アールなのにエル……。