メガロポリスの妄想は有能だ。産めよ育てよの時代はとうに別れを告げ、汝姦淫すれども子は作らず。都市にいるのはネクロフィリアと少年少女愛好家の大人達だけである。
R.U.R.は人々の願いを叶えるために産まれた。人の形をしているが、其の実人ではない。中身は複雑な基盤と配線、それから電子コンピューターでできている。シリコーンの肌は滑らかで、艶めく髪の毛は上質な象牙だ。瞳には玻璃やら翠玉やらの宝石を嵌め込んでおり、深紅の唇は皆生娘の如く清らかな言葉だけを紡ぐ。おおよそ八〇年間変わることなく愛され続け、自らの主人が死ぬまで傍に居る。体内の血液は合成組織液とオイルで賄われ、動く心臓は人工の恋心だ。
R.U.R.は堕落した人々の最たる理想少女として誕生した。いにしえの、こころを持たない機械とは違う。人の言葉を理解し、笑い、まぐわい、けれどそこに醜さは存在しない。日々の生活を賄うことはない代わりに、人と同じように眠り、人と同じように愛し、愛され、色街の路肩に住み着く。
高台のマンションは、選ばれたR.U.Rだけが住める桃源郷だった。
私やアインツを初めとする、マンションに住む人工少女。光明街に住む物とは違い、最上の愛と堕落を保証する存在。怠惰に眠りを貪り、与えられた娼婦着に着替え、自らの主人が訪れるのを待つ。R.U.Rは人ではない。心臓と恋心を持つ機械である。R.U.Rに生活の金は必要ない。金は醜いものだからだ。R.U.Rは、自身が醜いこともなければ周りに醜いものを置くことすらない。彼女達の報酬は、すべて金糸や水晶、それから玻璃羽の蝶々の模型や、ニコゲヤナギの新芽で支払われる。
ハインリヒを初めとして、港街には無機物愛好家が溢れかえっている。昼間は海風を受けながら健やかに働き、夜は有り余る富を自身の愛する機械に使う。マンションの少女を買うお金の無い人間は、専ら生身の体か一昔前のR.U.Rに甘んじていた。彼等の居る魔窟こそ光明街である。日の光の入らない街に時間の概念は無く、壊れかけの少女と余命幾許も無い人間が吐瀉物と廃棄物に塗れながら一生を過ごしている。
海風を受ける港、卑の光明街、高台にあるマンションの理想。それがこの街をかたちづくる全てだった。午後に起きて、アインツと囁きを交わし、ハインリヒを迎え、ハインリヒを送り、再びアインツと眠りにつく。それは私のこうふくな一生だ。今日も明日も、永久に続くほんとうのさいわい。
私たちは理想。
全てのメガロポリスの象徴。
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街燈は水銀、月よりも蒼く眩しい晄。白石の家々を照らし上げて、夜半の街は夢の中に漂うようだった。
マンションのエントランスまでハインリヒを送ると、入れ違いにアインツが帰ってきた。後ろにはひ弱そうな男が立っている。アインツの主人だ。起き抜けに見た窓の景色。醜い娼婦の言いなりになって半地下構造の扉に潜った、あの男。
アインツは男と目線だけで挨拶を交わし、私の腕に飛び込んできた。男が面白くなさそうに顔を顰める。私はとびきりの笑顔で彼を見送り、メインエントランスの扉を閉めた。腕の中のアインツは温かい。
「今日は楽しかった?」
腕に抱いたまま、アインツの髪を梳く。アインツは「多分、」と覚束ない返事で、後は何を問いかけてもだんまりだった。こんな時のアインツは強情だ。何を聞いても、どっちつかずの返事しかしない。悪いことがあったのを認めたくないのだ。
私は一つ息を吐くと、アインツの手を引いてホールに向かった。エントランスのすぐ奥にあり、そこではマンションに住むR.U.Rが思い思いの時間を過ごしている。
重い扉を開けると、彼女達のざわついた声が一気に押し寄せてきて、鼻にきゅっと縦皺が寄った。普段は囁くようなお喋りが聞こえるだけのホールは、彼女たちの歓声で満ち満ちていた。
「嗚呼、なんて云うことなの!」
輪の中心に、一際騒がしい乙女がいた。イオだ。目敏く私とアインツを見つけると、高い声を上げながら小走りで近づいてくる。
「ツェツィ、アインツ! どうしよう」
きんきんと高い声。アインツは私の背後に隠れて、眉を顰めながら「どうしたの、」と小さな声で尋ねた。
「私、孕んだのよ」
その言葉に、アインツが身を固くした。周りに居たR.U.Rが感嘆の溜息を漏らす。
イオはそっとお腹を撫でるが、彼女の腹はいつもと変わらない見た目だった。薄緑の娼婦着の生地はまっすぐに地面へと降りている。
「ああやっと、愛しい人と結ばれるのね。私、私、ママになれるの!」
恍惚として、イオは騒ぐ。その瞳の奥にほの暗い優越が見当たらないことだけが救いだった。男の子かしら、女の子かしら。少女達は口々に交わす。
「皆自分のことのようにはしゃいでくれるの。ねぇツェツィ、貴方は喜んでくれるかしら」
金碧の瞳が嬉しそうに細められている。私の手を取って、イオは小さく首を傾げた。
「勿論よ、」
「嗚呼嬉しい、貴方ならきっとそう云ってくれると思っていたの。うん、決めた。私、生まれてきた子に貴方の名前を付けるわ。きっとよ、」
「ツェツィは一人だけよ、」アインツが、背中越しにイオに噛みつく。イオは虚を突かれた顔をして、肩を竦めた。
「イオの子供が産まれたら、」少女が高らかに云う。「住人全員でお祝いしましょうね。だって、初めてママになる人だもの。これは記念すべきことだわ」
誰が放ったか分らない言葉に、けれどその場の全員が賛同した。私は微笑むだけで、何も語らなかった。
「……残念だけど、」
提案を聞いて、それまで陽気だったイオが突然俯いた。
「私、産む前にここを出ようと思うの」
恍惚としていた空気が固まる。一瞬の間を置いて、どうしてなんでの質問が矢継ぎ早に飛び交った。イオは落ち着き払って、高い分良く通る声で唱える。
「私達が一番分かっている筈よ。この町に居るのは私達とお得意様と寂れた娼婦。唯一の子供は光明街の双子だけ。私は自分の子を清く正しく育てたいの。機械から生まれてきても、一人前の大人になれると証明したい。……ごめんなさいね皆、でもどうか分かって、」
イオの目は煌々とした強さを秘めていた。これが母になる物の瞳だと云うのだろうか。
アインツは遠い瞳でイオを見つめている。瞬きの一つすらせずに、時が止まったかのように、ずっと。
誰かが、それじゃあ仕方ないわねと呟く。皆何とも言えないような顔をして、いつも通りの囁き声に戻っていった。アインツが眠気を覚えたのを言い訳にして、私達はエントランスを後にする。
「どう思う、ツェツィ」
アインツの問いには答えず、階段を上がる。靴音だけが壁に反響していく。鍵を開けて、アインツを部屋へ迎え入れた
きつい娼婦着を脱いで、寝具に横たわる。しばらくしてアインツも潜り込んできた。腕の中のアインツは温かい。
「空言なんじゃないの」
言葉の冷たさに、自分自身で驚いた。けれどいつだってそうだった。私は、アインツ以外の人にかける声は、たとえハインリヒだって温もりのない。
「あの子、いつも空言ばかり言っているじゃない。今回だって夢を現実と間違えているんじゃないかしら」
アインツは唇を噛んで、胸元に頭を埋めた。髪の毛から漂うのは金木犀の香りだろうか。外の匂い。
「子供を産むって、どういうこと」
聞き逃すほど小さな声音で問うものだから、理解するのに少し時間かかる。
「おなかに子供ができるのよ」
「子供ができると、母になるの」
「そうよ」
「母になれば、外に出られるの?」
「……アインツ?」
眉をひそめて、アインツと目を合わせた。
「ねえ、ツェツィは思わないの。外に出たいって」
「出る意味が分からない。貴方、私に居なくなってほしいの」
違う、と慌てて取り繕う声に、じゃあどうしてときつく詰め寄った。
「だって、外に出たら、貴方はハインリヒの所に行かずに済むじゃない」
「……ハインリヒのこと、嫌い?」
「そういう訳じゃないけれど。もしもツェツィのことを好きな人がいなかったら、わたし達、ずっとベッドの上で眠れるのにね」
親を見失って途方に暮れた子供のような、行く宛ての無い声だった。無邪気な笑い声よりもこの子に似合っているかもしれない。
アインツは私の腕から逃れて仰向けになった。カーテンが開いたままの窓から、青白い月の光が差し込んでくる。
「きっといつか、わたしを捨てるわ」
アインツの主人の事だろうか。針水晶の瞳はまあるくゆがんだ室内だけを写していた。私が言葉を紡ぐ前に、アインツは言葉を続けた。
「優しいわ。素敵だわ。愛されているわ。でも、いつかきっと、捨てられる」
「どうして、」
「わからない。けど、そう思うの」
玻璃の瞳は海の色。どこまで潜っても終わりのない海はいつか機械の体さえ融かして《アインツ》でも《ツェツィ》でもなくなった組織は小さな魚の餌になる。小さな魚を中くらいの魚が食べて、中くらいの魚を大きな魚が食べて、そしてそのすべてを人間は大きな船に積んで遠くの國に行く。
或いは、無い故郷を望んでいる色。水晶は何も映してなくどこまでも機械的なのに、一方で限りなくハインリヒの瞳と似ていた。生きた人の持つ黒星。
「ツェツィは肉体を孕むの?」
こちらを見たアインツの目にはきちんと私が映っていて、ひどくそれに安堵した。
「ハインリヒが望んだらね」
「すてき、」
果たして、孕むのは体だろうか。人工血液とオイルで賄われる肉体から、まことの血肉を持つ子供が産まれるのだ。
私たちの子供は、果たして心を宿すのだろうか。