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「たまにね。空っぽになる時があるの。言いたかったこと、やりたかったこと、あらわしたかったもの。全部どこかへ行ってしまって、ここにいるのは抜け殻のわたしだけ。無くなった穴を埋めたがるのかしら。そんなときは決まって、いつもより月が明るかったり空気が冷たかったりして、気持ちがいいのよ。私、今度街へ行くわ。からっぽを塞ぐために本を買いに行くの。本を買うためだけにお化粧をして、本を買うためだけに電車に乗って」
 からっぽのときの佳乃子は、喋り出すと止まらない。ニコゲヤナギの木の下で、今だけは佳乃子は嬉しそうだった。遠足前日の小学生と同じ、体がむずむずしてあたたかくなるあの衝動を内側に秘めている。佳乃子の頬はとりわけ艶々していたし、声だって静かであれど弾んでいた。たまに見れる佳乃子の子供っぽさが愛おしい。こんな時は、私は安心して佳乃子の隣に居れるのだ。
「どんな本を買うの」
「可愛らしい本がいいわ。装丁からして丁寧で、それでいて背表紙の糊がきっちりしているもの」
「大事にするつもりなのね」
「当たり前でしょう」
 昇学考査を終えた生徒たちは、間もなく来る大型休暇に心を弾ませていた。私も佳乃子もその中の1人で、休暇中少し遠くに行く約束をしたり、夜中こっそり家を出て星をみてみようなんて遊びを立てている。
 ニコゲヤナギは小高い丘に植えられている。少し視線をずらせば、ふもとにある学校の庭園が望めた。追いかけあう男子生徒や、門扉の傍で誰かを待つ女子生徒の姿は、遠くからだって楽しそう。
「ずっとからっぽのままだったらいいのに」
 隣で愚痴っぽく佳乃子が呟く。それがあまりにも、普段の佳乃子より幼い調子だったから、私は思わず笑ってしまった。
「からっぽのまま?」
「そう、そうよ。そうしたら私、くだらないことで卑屈になったり、息ができなくて苦しくなったりしないで済むのに」
「気にしすぎなのよ、佳乃子は」
「だってそうじゃないと、死んでしまうんだもの」
 そんな時こそ本を読んで気を紛らわせればいい。そう言ったら、佳乃子は首をすくめて不貞腐れた。草の生い茂る木陰の下寝そべって、すやすやと寝息を立ててしまう。
「ずっとからっぽだったら、きっと怒られてしまうわよ」
 口元を耳に寄せて囁くと、佳乃子はくすぐったそうに身を捩った。くすくすと目を閉じたまま笑って、手探りで私を探す。掌を捕まえて、指を絡めあった。
「怒られるのは嫌だわ、」
「最悪の場合、捕まってしまうかも。怠け者の罪で」
「やだ、」またも佳乃子はくすくすと楽しげだ。本当に眠いのか、体の温度がいつもより高い。

 佳乃子の頭を膝まで導いて、夕方がくるまで2人瞳を閉じていた。

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