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 夕焼けは紅でも橙でもなく、おおよそ暖色と言われる色全てと、少しの蜜を交ぜたそれである。

 佳乃子は夕陽を浴びている。また全身で照れている。エリザベス・テイラーから引き継いだ紫水晶に、いつも通りの透明が滲んでいる。

「わたしね、男の子だったら大樹って名前だったの」

 目の前のニコゲヤナギをじっと見上げる。正しく大樹であった。

「大きな樹と書いて、大樹というの。この樹と同じね」

 ぱちぱちと、佳乃子は忙しなく瞬きをする。涙に滲んだ視界では、さぞかしニコゲヤナギは見にくいに違いない。何の変哲もない、けれど私たちにとってはひどく愛おしい大木の、こげ茶色をした木の幹を、佳乃子は今必死に、鮮明な景色として覚えようとしている。

「誰がつけたの」

 かさかさに乾いた唇を撫でながら、私は佳乃子の横顔に問いかける。

「父さん」

 ほとりと佳乃子は雫を一滴、地面へ吸わせた。泣いている。いつもこうだ。佳乃子は父親のことを思い出すと必ず、涙するのだ。

 私は佳乃子の父が、果たして佳乃子に何をしたのか知らない。いや若しくは、何もしなかったのであろうか――。

 どういう意味なの、と重ねて聞く。佳乃子は、ただほとほと、と涙するだけである。

「わからないわ。聞かされなかったし、聞こうとも思わなかったもの。その時の私はまだ、ひどく幼くて、父さんの可哀さにも気付けなかったから」

 でもね、と彼女はつづける。

「私なりに意味を考えたのよ」

「そうなの、」

「意味を与えたと言った方が良いかもしれないわ。きっと父さんは響きだけでつけたのだろうから」

 冷淡な言葉。けれどその裏側に、飽くなき父への期待がある。

 意味を話す前にね、と、佳乃子はニコゲヤナギから視線を逸らして、私をみつめた。こんな綺麗な状況であっても、私は佳乃子にどきりとしてしまう。求めて欲しくて、頼ってほしくて、つまりそれは、私が佳乃子を欲しがっている証だ。

「名前が書かれていたのはね……母子手帳なの。お産の経過とか、そういうのがポツリ、ポツリ、書かれていたわ。

 最後におまけでついている、雑記用のページ。そこに名前が書いてあったの。女の子だったら佳乃子。男の子だったら、大樹と」

 佳乃子はまだ、瞳だけで泣いている。口や頬は赤いけれど、それはきっと、夕焼けのせい。

 私は佳乃子の言葉を待つ。ひどく可哀そうで愛しいけれど、それを言ってしまうと腐ってしまうから、何も言わないで淡々とする。

「太陽は暖かいわ、」佳乃子の唇が、ふるえた。

「暖かくて、優しいけれど、一転私たちの背を焼く程暖かさを強める時もある。草木が干からびる程強くなることだって、貴方、覚えがあるでしょう。けれど……けれどよ、その中でも、大樹の木陰は幾らかは涼しいのよ」

「もしも雲が太陽を覆い隠して、熱から人々を守ったとするわ。雲は増えて、雪を降らせるのよ。人々が熱さを忘れれば忘れる程、雪は勢いを増して積もっていくわ。風も吹く。人々は耳や手を赤くする。その中でも、大樹の洞の中は幾らかは暖かいのよ」

 いよいよ佳乃子は、顔をくしゃりとさせた。佳乃子を立たせている大地は、一体どのくらいの涙を吸っただろう。

「父さんは大樹と書いたわ。震えてこわばった文字で、男の子だったら、大樹と。わたしは、その震える文字に、まだ父の面影を求めている」

 まだ父さんが欲しいのよ、と、大人ぶった佳乃子は子供めいたことを吐く。

 夕陽が沈むまで、しばらくの時間がある。日が伸びたのだ。

 春が来る。胸騒ぎがした。佳乃子がじきに遠くに行ってしまう事実を今更思い出して、私は佳乃子を掻き抱く。佳乃子は私が、泣いている自分を慰めようとしている、とでも思っているだろうか。違うのだ。私は、佳乃子の話なんか、これっぽっちも悲しいと思っていない。佳乃子が涙を流すようなことだって、今の佳乃子を作るのに必要なものだったのだ。もしも一つだって欠けていたなら、こんなに狂おしい程、私を欲しがらせるような佳乃子にはなっていない。私は今の佳乃子が良い。佳乃子の辛さだって愛しい。

「父親に憧れるわ」

 鼻がかった甘い声で、佳乃子は私に、話を聞いてとねだる。私は彼女の言いなりになって、父さんが欲しいの、と尋ねた。

「欲しい。でも、私の本当の父さんが欲しいんじゃない、誰もが憧れるような、理想の父親を求めているの」

「優しくて格好良い、お父さん?」

「それから、子供を子供として可愛がってくれる父さん。私を、女の人として可愛がらない父さん」

 愕然とした私を、佳乃子は笑う。父さんが可哀そうなのはそれだからよ、と寂しく笑った。

「今の父さんにはね……もう二度と会いたくないし、会わないだろうと思うのよ。けどね、ひとつだけこうしてほしい、って思うことがあって。……きっと、きっとよ。私の本が、沢山の本屋さんで売られるようになった頃。父さんは私の本を手に取るわ。そして、そこに書いてある内容から、私のことを思い出す。そのときに涙を流してほしい。何もしてやれなかった我が子を可哀そうに思い、嗚咽交じりに本屋の前蹲ってほしい」

「本を通じて、貴方の存在を知らせるの」

「知らせちゃだめ。だめよ。だって二度と会いたくないもの。

 あくまでもたまたま手に取った本で、私のことを思い出してほしいのよ。思い出すだけで、いいの」

 佳乃子の照れている両腕が、私の腰に回される。どうして人は、このまま1つになれないのだろう。

 佳乃子がいつか、抱えたすべての哀しみや愛しさを吐き出したとしたら、紫の瞳は茶色へと様相を変えるだろうか。きっとそれがわかる頃には、私はもう佳乃子を忘れている。佳乃子を佳乃子と認めることはできず、私に惚れた女の1人としてみてしまう。色を、確かめることはできないのだ。

 夕は極まる。

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