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 ニコゲヤナギなんてどこにもない。

 私の佳乃子もきっといつかただの女の子に成り下がるから、だからせめて、と確かめて触れてみるのだけれど、それは子作りの真似事であるにも関わらず性欲の伴わない。あるのはいつも自己嫌悪だけである。あの、気分の高揚していない時に無理に処理をしようとした時と同じ、生々しい肉の感触が平生よりも如実に伝わって、うっすら吐き気すら催してくる。けれども内股は汗をかき内部は湿っぽくなる。呼吸も、乱れていく。そんな気持ちの悪い自分を自覚するから、余計具合の悪くなる。けれども今さら手は止められない。どうかせめて、この嫌悪が少しでも紛れるようにと、深く、深く、

 手をうずめる。

 どこへ。

 描く世界なんてどこでもいい。斜陽の入る教室でも暮色の中のニコゲヤナギの樹の下でも、あるいは事後、二人でベッドに寝そべって話しているのもいい。とにかく今ここに必要なのは、私と佳乃子だけなのだ。佳乃子の瞳は透明で濡れている。玻璃色の世界はちっとも綺麗なんかじゃない。

「果たして貴方、貴方は私のこわいものを、知っていたかしら」

 何時もより頬を赤らめて、佳乃子は問う。溶けた化粧が目尻によって、そこだけが少し黒い。

「こわいもの。どうなんだろう、知らない」

「どうして知らないの」

「佳乃子の好きなものなら、沢山知っている。だから代わりに知らないの」

「ならどうしてクラムボンは笑ったの」

「知らない」

 くすくすと佳乃子は笑う。これが彼女なりの冗談なのだと知る。

「怖いものは、一体何」乾いた唇から音を出す。佳乃子は両手で顔を隠して、ううん、と唸った。きっとまた泣いている。

「玄関のチャイム」くぐもった佳乃子の声。「それから知らない番号からの電話」

 佳乃子は怯えてることを私に伝えようと、必死に抱きついてきた。肩を抱く。慄えている。

「不思議ね、私」胸元、佳乃子の涙が私を濡らすのを感じる。「昔のことを思い出すと、涙が出てくるの」

「哀しいの」

「哀しいわけじゃないわ。だってこれのお陰で、私は書くことを覚えたのよ」

「なら嬉しいの」

「嬉しくもないの。たまにひどく遣る瀬なくなるの」

「遣る瀬なくなって、どうしようもないから、書くことで誤魔化そうとするの」

「どうなのでしょう」佳乃子の細い腕を取る。そのまま掌まで辿って、包みこんだ。佳乃子も弱く握り返してくれる。それだけで嬉しい。

 以下、佳乃子の独白。

「書くためには傷が必要よ。だから私、傷つく度に、もっと書けるんだって言われているようで安心すらする。けれどね。辛いことには変わりないの。苦しいことには終わりないの。……でも、でももしもよ。沢山傷ついて苦しむことが、将来文章で生きていく為に必要なことだとしたら…………」

 佳乃子の瞳から、一筋涙が頬を伝った。親指で拭って、指の腹に残った滴を口付るように吸い取る。しょっぱい。

「私、才能は無いけど、境遇はあるの」

 苦しいことなら、沢山知っているのと、佳乃子はまっさらな表情で私に伝えた。胸が痒くなって、吐きそうになった。

「今までで一番つらかったことは、なに」

 私は佳乃子の全てを知りたい。全部に触れたいから、今だって余すところなく、本当はわかってあげたい。その一心で、私は佳乃子を求めるのだ。

「ふとした時にね、思い出すの」嗚咽交じりの声だ。

「駅の、構内だったかしら。下り坂になっていて、私はそこを、父さんと母さんに手を引かれながら歩いている。確か、右手が父さん、左手が母さん。小さい脚で歩いていたらね、いきなり母さんが、せぇの、って言ったの。そうしたら私、いきなり宙そらを飛んだわ。二人が繋いでいる手を持ち上げて、ブランコのようにしてくれたのよ。飛んだ私は、あっという間に坂道の終わりに着いた。楽しくて嬉しくて、もう一回やってとおねだりしたの。母さんは『もう坂道じゃないからできないよ』って、笑っていたわ」

「幸せだったの」

「とても」彼女が泣けば泣く程、紫は透き通る。

「とても、幸せだったの。その時ばかりは、父さんと母さん、仲が良かったから」

 私は再び佳乃子を抱きしめる。話の終わりを感じて、名残惜しい。

 世界は暮色に染まるだろうか。宵闇の始まるころであろうか。朝焼けが、彼女の頬を照らしているかもしれない。

 聴こえるのは、佳乃子の嗚咽だけだ。

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