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「私ね、今とても綺麗な気持ちよ。たくさんの人に祝われて、褒められて、優しくされて、お顔の筋肉、どこかへ行ってしまったみたい」

 ニコゲヤナギの木の下で、佳乃子と私、三角座りをして遠い空を眺めている。小高い丘になっているこの場所からは、私たちの街がうんと遠くまで見渡せて、けぶった黄緑の山々や、空と交わる一瞬手前、一際濃い瑠璃色をする海が私の瞳に映る、写る。

 佳乃子の手には畏まった茶封筒が握られていた。中には先日憧れの学び舎からもらった合格通知が入っている。私の知らない、うんと遠い所にある学校。佳乃子はノートに制服を描いて、私は春からこれを着るのよ、と笑って話した。ここらじゃ珍しい茶色のブレザーと短いスカート。それを着たら佳乃子はきっと垢抜けてしまって、今の重苦しいセーラー服なんか着れなくなってしまうだろう。あと少ししたらクローゼットの下段に収められて、ただの思い出と成り果てるそれを、私たちは今少しの愛着を持って身に着けている。

「そして思うのよ。こんなに綺麗な気持ちを受け取れるのは、もう二度とないんだろうって。私は今がきっと一番綺麗で、才能と言う若葉を持っていて、瑞々しくて、ちょうどいいのよ」

 ちょうどいい、と私は佳乃子の空言を反芻する。そう、と微笑んだ佳乃子の、纏っている甘い匂いや足元に生えている萌える若草の葉の香りが、脳みその中にしわしわと浸っていった。

佳乃子の合格は喜びの言葉で迎えられた。級友も担任の先生も皆等しく佳乃子に祝いとねぎらいの言葉をかけ、佳乃子も微笑んでそれに応じた。でも佳乃子が本当は寂しくて不安で仕方ないのを、私は知っている。私だけが、知っている。

「だからみんな、私に優しくしてくれる。私はこれからどんどんおばあちゃんになっていくから、ちやほやされることは少なくなっていくわ。だからそのとき、今度は誉める側に回るとき、素敵に褒められる人になりたい。他の人を羨んで一人で酸っぱいブドウを欲しがる、ほうれい線のくっきりなおばあちゃんにはなりたくない。すてきな、すてきな、おばあちゃんになりたい」

 佳乃子はそこで言葉を終わらせて、立てた両膝の間に顔を埋めた。肩口で切りそろえた短めの髪が、さらさらと動きに沿って流れていく。なんだかひどく、切なくてずるかった。

 佳乃子は細い。細くて白いから、セーラー服から覗く手首が夕焼けの赤に負けてしまって、佳乃子は今、全身で照れているみたいだ。白に薄い赤の絹を掛けた佳乃子は、どう思う、とくぐもった声で呟いた。問いかけの言葉だけれど、私に聞いているんじゃない。きっと彼女は、彼女自身に聞いているのだ。

 それでも私、ただ聞いているばかりじゃあんまりにも寂しいから、乾いた唇を一舐めして、「素敵だと思う」って呟いた。佳乃子に返事をしたわけじゃない。隣から聞こえてきた男女の会話に何となしの感想を抱くみたいに、ぽつりとした、誰に対してでもない独り言。それを、呟いた。

「卒業するまでは、どうするの」

 佳乃子はくるりと顔をこちらに向けて、今度は私に対して言葉を紡いだ。

「お芝居をやろうと思うわ」

「素敵ね」

「佳乃子はどうするの」

 私の問いかけに、佳乃子はううん、と苦しげに唸った。それを見た私も苦しくなってしまって、嗚呼知れず鼻がつん、と沁みる。苦しくて、罪悪に詰まった心臓の上にある乳房を掻き毟るように掴めば、手の形に添ってぐにゃりと曲がった。

 私は佳乃子を見ないようにと、つんとそっぽを向いた。佳乃子のいない世界は、ちっとも切なくなんかない。佳乃子は私の問いかけには答えず、空が暗くなってきた、と囁いた。ついで、吐く息が白い、とも。言われた通りに息を吐けば、成程確かに吐息は白かった。足の先が寒さに凍えているのに気付いて、秋の終わりに気付く。もう少しでお日さまの見えない冬が来る。

「色々な人に会いたい」

 佳乃子はそう言った。私は相変わらず佳乃子を見ようとはしなかったけれど、きっといつも通りの、静かな瞳なのだろう。エリザベス・テイラーと同じ、淡紫の瞳。沢山ある佳乃子の綺麗なところの一つ。

「色々な人に会って、色々な話をしたいわ」佳乃子はか細い声で鳴いた。「勿論、貴方とも」

「私と話すのなんて、いつでもできるわ」

「できないわよ」佳乃子は即答した。「貴方、一年生の頃とは大違い。どんどん綺麗になっていく。きっと貴方はもう少しで、とても有名な女優になるわ」

「なる」頷いて、海に沈んでいく夕陽を見た。「なりたいとか、一応目指しているとかじゃなくて、なるの。私、それだけは譲りたくない」

「大人になってしまったら、貴方、どんどん遠い存在になっていくのね」ニコゲヤナギの木が、ざわついた。「十数年後。貴方はスタァで、いつも周りには綺麗な女の子がいるわ。甘い香水の匂いで、何人もの人を魅了するのよ。そういう人間に、きっとなっている。……だからね、わたし、まだ貴方がそうならないうちに、ちゃんと話をしておきたい。まだ学生という守られた身分にいるうちに、ちゃんと友人としてわたしを貴方の心に刻み付けてもらいたい」

 私はハッとして、佳乃子の方を見た。紫に透明を滲ませて、佳乃子は恍惚としている。

「……どういうこと、」

「大人になってしまうと、環境やお金が私たちを変えてしまう。同じ条件じゃなくなるのよ」

「貴方、私が変わってしまうって、そう思っているの」

「貴方だけじゃない」佳乃子は首を振った。「誰だってそう。わたしもなのよ。だって、それが大人になるってことだもの」

 佳乃子は身を捩って、ぴったりと私に寄り添った。佳乃子の体温に触れている片側だけが熱くって、そこだけが生きているみたいだ。

「だからわたしは今のうちに、まだ子供のうちに、貴方が秘めている才能やきらめきに少しでも触れておきたいの。貴方がスタァになって、ホリゾントライトを浴びるまで。きっと貴方はそうなる為に、色々な人と考えに出会うのでしょうね。貴方は出会った沢山の物事から、自分をかたちづくるものだけを選んで、自らのお芝居の糧にしていくわ。わたしは……私はね、その貴方をかたちづくるものの一つになりたいのよ。貴方がうんと綺麗になって、今貴方をからかっている人が全て、貴方に惚れてしまった頃に。貴方ともう関わりの無くなってしまった私を思い出して、貴方が若いころから、貴方のことを好きだった私を思い出して、少しだけ、せつなくなって欲しい」

 夕焼けが黄緑に光って、水平線の下眠りにつく。

 いよいよ空は藍色を極めた。

 途端、どうしようもなく体が甘さを欲しがって、私は佳乃子に抱きついた。抱きついて、目を閉じて、佳乃子だけを世界にする。佳乃子の元々の匂いと、振りかけた香水の匂いと、佳乃子の好きな、あの人の残り香。余すところなく全部嗅ぎ寄せて、胸と胸をくっつけた。愛情からじゃない。寂しくて怖くって、きっと私と佳乃子が一人の人間だったなら、こんな想いは、うまれない。

 感覚だけで佳乃子の唇を探る。剥き出しの内臓は柔らかくて、リップの油で濡れていた。「大丈夫、」佳乃子は私の背に腕を回して、縋りつくように抱き返した。大丈夫、大丈夫よと呟く彼女は、ちっとも大丈夫なんかじゃない。

 目を開いて、元の世界を見る。その、重ねた唇の隙間に見える白い息や、口付けの合間を縫って放たれる佳乃子の強がりが、私たちのどうしようもない未来と、それを受け入れる哀しさに満ち満ちている。

 佳乃子の握っていた合格通知が、ぱさりと音を立てて落ちた。草の露が染み込む。佳乃子が体を寄せてくる。触れていなかった太腿まで合わさって、生きている場所が増える。

 帰ろうか、と優しく声を掛ける。

 しばらく黙って、佳乃子は頷いた。

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