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 冷えた夜に吸い込まれる歌声は、上手なほうがいい。
「明日、何時に起きるの?」
「……ろくじはん」
「じゃあ今日はもう寝ないほうがいいね」
 萩原はそう言って笑ったあと、また少しだけ歌った。散々浴びるように飲んだアルコールに喉は焼け、萩原の奏でる歌声はまさに酔っ払いが気分をよくしたときのそれだ。正直聞くに堪えないけれど、正気の彼は普段絶対に往来で歌ったりなどしないから、ある意味貴重ではある。だから、直人はお世辞にも上手だとはいえない萩原の声に耳を傾ける。いつか彼が正気に戻ったとき、からかって遊びたいのだ。
「嫌だよ。帰ったら風呂入って寝る。んで明日遅刻する」
「意識してゼミでの立場を悪くしようなんて、君はおかしい人だね」
「おかしいのは、」冷えた空気にむせて、直人は何度か咳をした。「あいつらだよ。朝っぱらから大学に集まってミーティングしようなんて。張り切ったところで、対して実にならないくせに」
 今期から、行動倫理学のゼミナールを履修した。学問は面白いが教授もメンバーも好きにはなれない。アイデンティティが外殻ではなく内包される構成物によって決定されるのだとしたら、いま籍を置いている場所はまさしく「ひねくれた」という表現が正しい。
「誰だって、質問に素直に答える奴なんていないんだ」
「それは不服の意味でそう言っているの?」
「当たり前だろ。良いミーティングにしよう、なんて言っているのに、反対意見とか、質問とか、そういうの一切受け付けないゼミ長なんだよ。おかしいと思わない? 俺、やっぱり萩原さんと同じゼミに入ればよかった」
 直人の文句に、学び始めは誰だってそう不満を抱くものだよ、と萩原は薄く笑った。
「俺と同じゼミに入ったら入ったで、直ちゃん、文句言うでしょう」
「言わないよ」
「嘘つけ。ゼミでの萩原さんは冷たいって、寂しがるくせに」
 薄笑いを否定する言葉に詰まって、直人は黙って顔を伏せた。アルコールをしこたま摂取した後なのに、下手な歌を歌う以外は全く変わりない萩原の態度が悔しかった。
「どこに行ったって同じだよ。俺らが通う大学は、先生も生徒もひねくれた性格の奴ばかりなんだから」
「萩原さんも?」
「寧ろ今まで付き合ってきて、俺のこと素直な性格だって思ってたの?」
 歌声のあいまに返される言葉に、そういうところだよ、と直人は道端にある石を蹴った。排水溝に吸い込まれるようにして消えていった小石の行方は一瞬で分からなくなる。後を追うほどの興味も沸かず、ただ、萩原の下手な歌を聴いていた。

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