top of page

 例えば日曜日の動物園とか、寂れたやる気のない牛がいる牧場とか、庭先の、檻に入った番をしていない番犬とか。昼下がりの午後には大体いつも野生を失った動物達が傍にいて、そしてそれは、ありとあらゆる記憶にひっそりと包まれて繭のようになり、いつまでも自分の頭の中に残るのだ。
「あのアザラシ、お母さんかな」
 隣で荻原がつぶやいた。独り言なのかこちらに問いかけたのか分からないほどの小さな声音で、一瞬直人は相手が何を言ったのか分からなかった。
「なに、」
「アザラシ。向こうの、なんかぐったりしてる黒い子」
「ああ・・・・・・」
 白い柵の向こうには、履き潰したゴム靴のようにひらべったいアザラシが1頭だけ見えた。鉄と青ペンキで無理やり作られたお粗末な北極の風景に、ぽつんとひとりだけ置かれて寂しそうだ。きっと彼女は北極の景色を見たことが無い。
 アザラシはかたくなとして動かない。猛暑日を越える今日だというのにプールに飛び込む気配はおろか、日陰を求めて動く気すら無いらしい。隣で小さな子供が、柵越しにつまんなぁい、と駄々をこねている。
「夏バテなんじゃないの」
「でも、お腹大きいよ」
「想像妊娠かもしれないじゃん」
「想像妊娠って、」荻原が笑った。夏の太陽に反射して、濡れ羽色の髪さえもまぶしい。
「本当にあるらしいよ、動物の想像妊娠」
「嘘つけ」
 言って、すぐ傍にある柵からほんの少しだけ身を乗り出す。人口海水と生魚の混じったにおいがする。水族館のにおいだ。ここだって昼下がりの午後が似合う場所なのだ。
「本当だって。この間テレビでやってた」
 幼く直人が食い下がれば、荻原は目を細めて笑いつづける。
「じゃあ、あの子には旦那さんがいないってことになるのかな」
 荻原は直人から視線をそらして、まっすぐに前を向いた。それはぐったりとしたアザラシを見つめていたのかもしれないし、或いはもっと遠くを見ていたのかもしれなかった。
 直人も同じようにしてアザラシを見つめる。一瞬ばちりと目が合い、すぐにそらされた。
「頭の中にはいるのかもしれない」
「旦那さんが?」
「うん」
 言ってから、自分の考えがひどくむなしいものだということに気付く。頭の中にいる恋人を思うあまりに体さえも勘違いするのと、永遠に一人なのと、どちらがいいのだろう。
「なんかおセンチ」
「どうしたのいきなり」
「荻原さんに別れてって言われたら、俺想像妊娠するかも。んで責任とって貰う」
 今度こそ荻原が吹き出して、盛大に笑った。げらげらと下品に柵を叩いては苦しそうに息を吸う。
「そんなに笑うこと? 俺結構まじめだったよ」
「真面目なのは分かるけど、発想が斜め上に飛びすぎててどう答えればいいのか迷うよ」
 ようやく荻原の笑いが収まった頃、プールの水がちゃぷん、と揺れた。合わせたように、今までぴくりとも動かなかったアザラシが顔を上げて水場に近づいてくる。
「あ」
 荻原が言ったのとほぼ同時に、プールの水が盛大に吹き上げられる。水の中から優雅に陸に上がったもう一頭のアザラシが、荻原を見て一瞬笑ったように思えた。
「・・・・・・旦那いるじゃん」
 哀れ真正面からアザラシの水攻撃を受けた荻原の、呆然としながら放った一言がやけに面白くて今度は直人が吹き出す番だった。
「嫁さん馬鹿にしたからバチが当たったんだ」
「理不尽すぎない? ていうかやばい、靴まで濡れたんだけど」
 げらげらと遠慮なく笑えば荻原が生魚臭い手のひらを押し付けてくる。やめろと逃げを打てば、距離をとる前に抱きつかれた。
「うわっ最悪! えんがちょ!」
「想像妊娠なんてなおちゃんが言い出したせいだ」
「仲良くすんな。ていうか本当臭い!」
「飼育員さんに言えばタオル貸してくれないかな。行こう」
 手を引いて、生臭い体で水族館の小さな通路を抜けていく。
 寂れた生き物と同じにおいが自分から絶えず香って、直人はまた少しだけ笑った。

bottom of page