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 意識には境がある。
 カーテンの開け放たれた窓から、惜しげも無く日の光が降り注いでくる。部屋の中浮遊する埃がちらちらと反射して、空気の流れの影すらもはっきりと見て取れる、そんな昼下がり。干したてのシーツに寝転がるのは思っていた通り気持ちよくて、皺がつくことなど一切構わず大きく四肢を投げ出して冷たい部分を探す。枕の下は穴場だ。すぽっと手を突っ込むと、まだ体温の移っていないひやりとした感触が両腕を包み込んだ。
「君はいつも寝ているね」耳のすぐ傍で、苦笑する声が聴こえた。
「一応ここ俺の部屋なんだけど。それも俺のベッドなんだけど」
「あー……お金持ちのベッドって最高。なんでこんなに寝心地良いんだろう」
「6時に出るんでしょ。寝ても起こさないからね」
「ひどい。俺のこと好きなくせに見捨てるんだ」
「直人君が好きなことと直人君の問題点に目を瞑ることは同義ではないよね」
「なかよくしてよ」
「なおちゃん」
 視線を右に移せば、濡羽色の髪の毛が目に飛び込んでくる。荻原はベッドのすぐ下に座り込んで本を読んでいるらしかった。染めていない、つやつやとした綺麗な髪の毛の、つむじから耳の上あたりまでが見える。触りたい、と思うよりも先に衝動で手が動いた。さわりたいふれたいたしかめたい、物心がついたばかりの赤ん坊かと自嘲する。
 伸びかけの、男としては少し長めの後ろ髪に触れる。自分のよりも細くて絡まりやすそうで、掻き分けた下にあるうなじはぞっとするほどに蒼白かった。この手で確かめなくても分かる。荻原の肌は、きっと見た目と同じに冷えているのだろう。シーツの心地よい冷たさなんかとは比べ物にならないくらい、もっと底の底から。熱を与えられても一生温もることがないと決まっているみたいに、熱を貰うくらいならば融けて無くなることを選ぶほどに。皮膚と皮膚が合わさる一瞬前、1ミリにも満たない程ごくわずかに間隔を開けて、そっと荻原を窺う。後ろ首から発せられる冷気を、指先がほのかに感じ取った。それが合図だったかのように、触れる。
「うわ、なに」人差し指でうなじをなぞれば、華奢な肩が僅かに跳ねた。狼狽した顔で振り向かれる。ぶつかった瞳は人としての熱を持っていた。少しだけ安心する。
「本ばっかり読んで構ってくれねーから」
「君がベッドで寝てるからでしょう」
「荻原さんが構ってくんないから不貞寝してんの」
 意識には境がある。普段は特別目を向けることが無いから、つい見落としてしまいがちだけれど。
「本読むの止めたら不貞寝もやめてくれる?」
「起きる起きる。ちょー起きるよ。元気百倍。だから構って」
「構ってって、何して遊ぶの」
 人の家。招かれた自分。自分を招いた好きな人。が、無関心から自分に興味を示した時。昼から夕方に移ろいつつある時間。ぱちりぱちりと、細分化されて名前の付けられたスイッチが1つ1つ押されていくように、まどろみかけの意識は別の衝迫に気付いて目を醒ます。徐々になんて生易しいもんじゃない。1つ言葉を交わすほどに期待は膨れ上がり、それこそブロックを積んでいくみたいに不安定ながらも確かに自分の中に息づいていく。よく目を凝らさなければ見えない、ごく淡い色調で彩られたいくつもの門を1つずつ潜っていく感覚だった。思って、思っていることを自覚して、抑えて、探って、誘い込んで、いくつもの手順と段階の門をくぐって、ようやく言えるんだ。
 したいって。

「まいったな」
 覆い被さってきた細い体が、途方に暮れたような声を出した。なんとなく鼻を明かした気分になる。
「今、全然まいったなって思ってはいないんだけれど、限りなく正確に自分の気持ちを表現するにはまいったなって言葉しかない気がする。どうしよう。まいったな」
 にべもなく、全然困っていない雰囲気で荻原はそうぼやいた。その間にもシャツの隙間から手が差し込まれて、冷えた体温に肌が粟立つ。
「何してんの」
「究極の可愛がり」
「あんた、雰囲気の手順は踏めるくせに体の手順は踏まないよね」
 荻原は答える前にベッドサイドのリモコンに手を伸ばした。ピ、と電子音がして、室内の照明が落ちる。この部屋は電気のオン/オフだってリモコン操作だ。
 明かりを消したところで、窓のカーテンは開きっぱなしだから完全な闇とは言えない。ましてやまだ午後の時間帯だ。日差しは傾きながらも注いで、非常識な二人の存在を露わにする。今だって、ああほら、すぐそこで、はしゃぎながら駆けていく子供の声が聴こえるじゃないか。
「何が言いたいの」
「へたくそ」
 正直に答えると、思いきり頬をつねられた。理不尽だ。
「ひどい! 鬼だ!」
「鬼なのはそっちでしょう」
「俺は荻原さんの問題点を指摘してあげただけなのに! お互いの得手不得手を認め合い解決し心身ともに更なる向上を目指すのが高校生の清く正しい交際でしょ。生徒手帳に書いてあった!」
「悪いけどそれホモには適用されないから。俺達例外だから」
 恥も雰囲気もへったくれもなかった。いつもこうだ。なんとなくお互い意識して確認し合って幾つもの予防線を越えてようやく誘いの文句を口にするのに、いざってなれば足開いてバッてやってガッてしてウッてしてはい終了。あんまりだ。あんまりすぎる。荻原さん、あんたコンビニも似合わないけどセックスの仕方も似合わないよ。せめて体温と同じくらい、冷めた態度でやってくれればいいのに。
「いちゃつこうよ。バカップルみたいに」真上にある頭を引き寄せて、緩く胸に抱いた。日に焼けた自分の掌が目に入る。
「すぐヤッてはいおわりって。なんか妙に淡泊で、微妙に寂しくなる」
「たんぱく」
「うん。ひょっとして俺練習台? 使い捨て?」
「そんな、」咄嗟に返して、噎せて、濡羽色の頭が揺れる。噎せながらちがう、と言う姿が面白かった。
 困らせることに若干の喜びを覚えてしまう。だってこんなの全部茶番だ。誘ったのは自分で、触れてほしいのもきっと自分の方が待ち望んでいる癖に。
「焦っちゃうんだ」声が、吐息交じりの声が、「好きで、好きすぎて、今にだって触れたくって、一秒だって早く、神様、って。そう思う」
「……いつも?」
「いつも。今も」
 頬に落ちる黒髪がくすぐったい。同じ黒さを湛えた、水分の多い瞳がはにかんで笑う。
 男女と同じ交際の程度を求めている訳じゃなかった。それでも自分が門をくぐるのを止めないのは、拒まれるのが怖いから。例えそれがどんなに優しく理論の通った拒絶でも、きっと自分はその時を境に荻原に手を伸ばすことは無くなるのだろう。だから今日も、明日も、明後日だって自分は門をくぐる。雰囲気で感じて、言葉で探って、何重にも引いた予防線が少しでも震えないことを願いながら。冷たの奥に潜む、生きる物の衝動と熱を欲して。何度も。
「……今までそんなこと、一度だって言わなかったくせに」
 シャツのボタンに手がかかる。今度はなにも言わなかった。

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