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 曰く織部は、住む部屋は絶対にガスコンロじゃなければ嫌だと言う。アルミ鍋に入ったポップコーンを、いつでも好きな時に作りたいのだそうだ。
「あんまり近づくと、波にさらわれるよ」
 織部は波打ち際でブルーキュラソーを撒いている。スニーカーが濡れることなど構わないようだ。俺が注意すると、聞いているのか聞いていないのか曖昧な調子で「んー、」と唸った。
「『マグロうまい』っていう猫みたい」
「まうろうまいにゃ……」
「はは、」
 会話とも呼べない、日本語を使った鳴き声の応酬を繰り返す。織部がシロップを撒くたび、海はじゅわりと音を立てて鮮やかに染まった。
 周りが就職活動に焦る時期だというのに、織部は全くと言っていいほど何もしていない。「今何してる」と俺が織部にLINEを送ると、毎回決まって「爆竹使って流しそうめんチャレンジしてる」とか「ゴキブリは俺の部屋遊びに来るのに俺はゴキブリの部屋行ったことないからゴキブリの巣探してる」とか、とかくそんな回答が返ってくる。
 今日だって、俺が面接終わりに織部の家を訪ねると、彼は馬鹿みたいに青い瓶を抱えて海に行くところだった。
――何しに行くの。
――海にブルーキュラソー撒いて真っ青にする。
――馬鹿じゃないの。
 こんな時期に。と、俺は言った。でも、春なのに赤くほてった織部の頬と、細い腕に抱えられたキュラソーを見た瞬間、まるで俺は、自分も海にキュラソーを撒きたいと思っていたし、そのことをいま織部によって気付かされた――そんな気になって、もうそれ以外考えられなくなってしまったのだ。だからこうしてここにいる。陽の落ちかけた三浦海岸の砂浜を、織部と歩いている。
「就職どうすんの」
 瓶を掲げる、薄い背中に問いかける。織部は答えない。なにも考えてないのだ。俺は織部のそういうところが好きだし、嫌いでもある。
「今日、面接行ったところ、わりとよかったよ」
「んー」
「まだ人募集してるって。お前が、材料強度学やってるって話したら、興味持ってた」
 とろけた波が織部のすねまでを濡らす。砂糖を足された海は夕焼けにてらてら輝いていた。
「なあ、お前も面接受けろよ」
 いつまで経っても返事をしない織部に痺れを切らして、少し語気を強めた。すると織部はようやくこちらを振り返り、だらしなく笑った。
「綾瀬は、そればっかだ」
 青い瓶の輪郭を、蜜色の光がくるむ。海も砂浜も、織部の髪も細長い手足もみんな夕焼けの橙に染まっているのに、黒々とした瞳だけはそのままだった。
「帰ろっか、」
  俺が黙り込むと、織部はそう優しく言った。

 

 海岸から歩いて15分のところに、織部の住んでいるアパートがある。六畳一間のワンルーム。くたびれたダンボールや訳の分からない素材で床が埋めつくされているから、足の踏み場もない。部屋に入るや否や片付けをはじめた俺の後ろで、織部は「喉乾いたー」とぼやいた。
「アイス食べよ」
「えっ」
 麦茶でもコーラでもなく、冷凍庫からソーダバーを取り出した織部にぎょっとする。
「水飲めばいいじゃん」
「アイスでもいいだろ。ソーダだし」
「アイスは食べ物だろ」
 というと、そうだけどさあ、とだけ織部は。
「そうだ、いいもの貰ったんだ。綾瀬が来たら、一緒にやろうと思ってたんだ」
 固めたソーダを飲みながら床に転がったダンボールを漁り、「これだ」とくしゃくしゃの紙袋を取り出す。黒のクラフト紙に、兎の絵と「NO!動物実験」の文字。あの、匂いだけで近くに店舗があることがわかる有名な石鹸屋の。
「バスボム。ゼミの子に貰ったんだ」
「仲良いの、そいつと」
「全然。バイト先の在庫処分だって言ってばらまいてた」
 織部のあっけらかんとした態度に、無意識に噛んでいた唇の力がゆるむ。口の端を切ったのだろう、微かに鉄の味がした。
「綾瀬がうちに来たら、一緒にやろうと思ってたんだ」
 織部はユニットバスの扉を開けた。やがてばたばたと浴槽に湯を溜める音が響いてくる。プラスチックの、安いバスタブだから、部屋中に音が反響する。
「おいでよ、綾瀬」
 ソーダを噛みながら織部は、上半身だけドアから出して誘う。
「風呂でアイスなんて、行儀悪いよ」
 次に出た言葉に、自分でも驚いた。
「――怒られるよ」
 織部は、めずらしくびっくりした様子で、それから、
「俺も一緒に怒られるから大丈夫」
 と浴室に消えた。結局怒られるんだから全然大丈夫じゃない。冷凍庫からシャトレーゼのアイスを取り出して、ソーダをひと口齧った。溶けた砂糖水が唇に染みる。
 バスタブの縁に腰掛けた織部の隣に座る。薄手のシャワーカーテンが肌に張り付いてひんやりした。
「これ、おいしいけど食べにくいよな。後半いつも苦戦する」
 半分も残っていないフルーツドロップの、ストローより細いプラスチックの柄を織部は揺らす。舌を出してキュラソーより薄い青の滴を呑む。勢い良く出るぬるま湯の音がうるさい。
 脛の当たりまで湯が溜まったところで蛇口をひねり、織部はきらきらとラメが輝くバスボムを湯に落とした。重曹がしゅわしゅわと音を立てながら湯に溶けて、丸い輪郭はあっという間に広がる宇宙になる。
  ちらちらと蛍光灯の光を反射していたラメは瞬く間に燐光となり、偽物の宇宙は本物の宇宙へ繋がる。狭いバスタブに立ち込めていた湯気は過去の雲に収斂し、やがて足元に小さな男の子が写し出された。神様の視点。ここからだと、あの子のつむじがよく見える。4つの足が揺れる度、像が波にたわんだ。
「小さい頃の俺だ」
「そうなの?」
「うん」
 懐かしい、と明るい声ではしゃぐ。保育園だろうか。黄色い帽子に水色のスモッグ姿で、昔の織部はアリの巣をいじっている。
 お母さんいつ迎えくるかなあ、と、おおきなひとりごとを、ちいさな織部は言う。
「来ないよ」
優しい織部の声だった。
「ずっと来ないよ」
 昔の織部に、今の織部の声は届かない。
「小さい頃は、何して遊んでた?」
「アリの巣の傍に砂糖を置いてアリが太るか観察したり、木の穴に指突っ込んだりしてた」
「今とそんなに変わんないじゃん」
 しかも追いかけるのがアリからゴキブリに変わってるから余計始末が悪い。思わず吹き出すと、弾みで食べかけのアイスが崩れて落ちた。
「最悪」
「あーあ、勿体ない。だから後半食べるの難しいって言ったじゃん」
「あれ忠告だったのかよ。独り言かと思った」
「綾瀬がいるのに独り言いってどうすんだよ」
  溶けたソーダは宇宙と交わる。昔の織部はふと顔を上げて、何かをじっと見つめていた。「気付かれた?」
「まさか」
 横顔を伺う。織部は穏やかな眼差しで過去の宇宙をずっと見つめている。
 俺が視線を戻すと、小さな織部は不思議そうに頬を撫でていた。溶けたソーダが滴となって、織部の頬に、口に、一滴、二滴。
――ゆうくん、
 遠くから、男の子を呼ぶ声が聞こえる。水分の多い頬がきゅっと持ち上がり、せんせえ、と舌足らずに甘えた声を出した。
――いまね、甘い雨がふってきたんだよ。
「そっか」
 納得したように、大きな織部が小さく笑った。
「あの時の、綾瀬がくれたソーダだったんだ」
 昔から変わらない。海と雨水をふくんだ頬が、宇宙の光に照らされてつやつやと輝く。
「怒られないんだよ、俺たちもう」
  何も無くなったプラスチックの棒を指揮者みたいに揺らして、織部は言う。
「……うん」
 俺は今の織部にもソーダを与えたくて、けれど最後の一口は過去の宇宙に溶けてしまったから。滴の残る唇で、キスをした。

 

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