目を醒ますと、隣でアインツが死んでいた。
ベッドから抜け出し、工具箱を引きずり出す。部屋の照明は落ちていたが、窓から注ぐ自然光で十分だった。
床の上に転がっているアインツは酷い有様だ。全身泥に塗れて、乾いた体液がそこかしこに付いている。おまけに右足がふくらはぎの下からすっかり千切れてしまっていて、切断面からは無理に千切られた導線が露出していた。一つ溜息を吐いてから、大きめの針と糸を取り出す。針を埋めると、アインツの皮膚は少しの抵抗もなく受け容れた。離れてしまった脚をやや強引に縫い付けてやる。放っておけばその内くっつくだろう。全体の汚れを拭き取り、皮膚塗装の剥がれた部分を塗り直して、凹んだ箇所を板金した。頭のネジが緩んでいたのできつく締める。黒曜の瞳は右目が無くなっていたので、足下に転げ落ちていた瑠璃水晶を代わりにはめ込んだ。爪には金剛石の粉を塗しておく。胴体部のハッチを開けるとオイル交換のランプが付いていたので、フィルターごと取り替えてやる。オイルは大切だ。私たちの血となるものだ。最後に全体を吹き上げてマット・コーディングをし、手の甲にキスをする。それは目醒めの合図だった。
「アインツ。起きて、アインツ」
呼びかけに応えて、アインツは生き返る。私たちの死なんてこんなものだ。
「おはよう、ツェツィ」
アインツの長い瞼が震えて、それから瑠璃と黒曜が真っ直ぐに私を捉えた。灯の燈っていない世界において、彼女の瞳だけが唯一の光源だった。
「おはよう。一体何があったのかは知らないし聞かないけれど、寝るならきちんとベッドの中に入って頂戴ね」
「ごめんなさい」
アインツは少しも悪びれた様子が無い。溜息を吐いたところで、大型棺桶時計が午後三時を告げる鐘を鳴らした。それは全てのR.U.R. が目覚める合図だ。私たちの一日が始まる。
半円アーチの大きな造りの窓からは午後の空が望める。太陽は低い位置にあった。遠くには海と、つるりとした煉瓦の敷かれた大通り。真下には細く入り組んだ裏路地。狭い家々の間を繋ぐように張られたタープには洗濯物が弱い風にはためいている。大通りにも裏路地にも、等しく白いブロックみたいな家が建っていた。同じ形の家。同じ形の窓。同じ形の扉。こうも家の外観が同じだと、どれが誰の家だか分からないだろうに。
日の光の届かない裏路地は、午睡の時間といえど既に堕落していた。しなびた、色あせた娼婦着を来た女が若い男の腕に凭れ掛かっている。男は何やら困惑した顔でまごついていたが、やがて赤ら顔のまま、半地下構造のドアを潜っていった。
男の背格好には見覚えがあった。思わず爪を噛む。
「ツェツィ、」咎めるような、拗ねるような声にハッとして、私は窓から視線を外した。
「爪を噛んでは駄目よ」アインツが、娼婦着のホックを上げながら私を叱る。
「せっかくの綺麗な爪なのに、勿体ない」
「だって、」
「何か面白いものでもあったの?」
アインツが隣に立って窓を望む。眩しそうに眼を細めて海を見つめた。「なにもないじゃない、」と文句を垂れるアインツに、何も無かったのよ、と。
「今日は海が綺麗ね。水が澄んでいる」
アインツが歓声をあげた。大通りを進んだ先には港町がある。一日に何回か大きな船が遥かの国の食物や装飾品を運んできて、代わりにお魚を積み込んでまたどこかへと航海の旅に出ていく。
「ツェツィ。海の向こうには、何があるの」
「また別の島があって、国があるのよ」
共に渡来する文化が融合して、港町は独特の雰囲気を帯びていた。繁体字を掲げた漢方屋、ラテンの詩を謳うジプシー、焦げた肌を持つ靴磨きの男の子。サファイアを孕んだ海風を受け、人々は皆溌剌としている。けれどそれは昼に限っての話で、夜になれば誰もが私達を探して裏路地の影を縫って歩くのだ。
「外に出たい?」
尋ねれば、アインツは小さく首を振った。
「外に出るなんて無理よ。できっこない。死んぢゃう、」
「そうね」
太陽の出ている時間、町は光に包まれて真っ白になる。白すぎる家々が陽光を反射するせいだ。明かりの点けていない室内とのコントラストにくらくらした。
「今日、デートなの」外への興味を無くしきれないアインツが、町並を見下ろして言う。
「誰と行くの」
「わたしのことをすきなあの人と」
「楽しみ?」
「多分。ねえツェツィ、わたし今きっと、恋をしているわ」
「楽しい?」
「多分」
アインツの返答は心許なかった。私は窓から身を離し、瑠璃の娼婦着に着替える。一通りの身なりを整えてからアインツの髪の毛を梳いた。
「オイルが汚れていたから、交換してあげたわ」
イタリアン・クラシカルの椅子は皮張りでこそあれど合皮だ。そこにアインツを座らせて櫛を通せば、象牙の髪の毛は細波と同じ音を立て流れゆく。
「それから、爪を見て。私とおそろいにしたの」
行儀よく膝の上に揃えられた両手に、自身のそれを重ねる。同じネイルを施された、私とアインツの、爪の容までそっくりなゆびさき。
夜の月の色ね、と、アインツが歓声を上げた。宙に浮いた脚をばたつかせて、子供のようにはしゃぐ。
「貴方はとても素敵な人ね、ツェツィ」
振り返って、水分の多い笑顔でアインツは私を褒める。弾みで揺れた髪の毛から、甘い香りがする。堪らなくなって、その額にくちづけた。
「どうしてそんなこと思うのかしら」前髪を掻きあげて、もう一度唇を落とす。アインツの髪の毛は不思議。短く切り揃えた前髪は真っ直ぐ重力に従っているのに、全体はゆるやかに波打っている。夕焼けにきらきらする海の色なのよ、と彼女はいつも得意気でいた。アインツがくすぐったげに身を捩ると、また甘い香りが立ち込める。
「だって、わたしに親切にしてくれるもの。ねえ、貴方が聞かないならわたしから話してあげる。わたし、きのう買われたのよ。イオのお得意様に。アイツは締りが悪いからって、一体どういうことでしょうね。果実漬けの蜂蜜、銀糸のリボン、それから瑠璃水晶を貰ったわ。水晶はね、わたしがおねだりしたの。ツェツィ、貴方に似ているって思って。港町の露店で売られていたのを買ってもらったわ。けどね、その人、ドア一枚くぐるとまるで――そう、まるで――……。だからね、わたし、あまり昨日のことは覚えていないのだけれど、きっと殺されてしまったのだと思うの。光明街で」
光明街、と聞いて、自然と眉が上がった。怪我をした犬とホテルに暮らす小児従業員とが幅を利かす色街だ。大抵のR.U.Rはそこで仕事をするが、私達には特別の家があった。大方その客とやらにうまく言いくるめられたのだろう。光明街ではいくら死体が転がっていようが、誰も何も気に咎めない。
「きっと、優しい誰かがわたしをツェツィの部屋まで運んでくれたのね。それとも、最後の力を振り絞って貴方の部屋に行っただけかしら。でもそれだとおかしいわよね、マンションのエントランスからここまではエレベーターを使わなければならないもの。わたし、昨日のことはあまり覚えていないけれど、右足を斧で叩かれた所までの記憶はあるわ。ツェツィ、人って、片足でも歩けるものなの?」
「どうかしらね」はぐらかすと、アインツは分かりやすく頬を膨らませた。
「貴方昨日光明街に居たのでしょう、」まどろこしい駆け引きを諦めて、アインツは噎せながら尋ねる。
「そんなこと、」
「嘘はやめて。わたしと他のR.U.Rとの見分けがつくのは、貴方くらいよ」
「行ってないわ、あんな所」
「本当に」
丸い、大きな瞳に嘘は吐けなかった。私はとうとう言い逃れを止めて、真実を口にした。
「取りに行かせたのよ」
「誰に」
「私のことをすきなあの人に」
「ハインリヒ?」
「そう」
櫛をしまい、髪飾りをつけて、アインツの準備も終わった。彼女のおしゃべりのせいで無駄に時間を食ってしまった。爪を噛みたくなるのをぐっと堪える。とうに空は赤を滲ませていて、もう少しすれば宵闇が私達を包む。
「もう、出なきゃ。アインツ、靴くらいは自分で履いて」
アインツは大人しく編上げのトゥシューズもどきに足を差し入れる。窓のカーテンを閉めて、私も靴を履いた。部屋の扉を開けてアインツが待っている。
マンションのエントランスに出る直前で、アインツが私の袖を引っ張った。甘えて腕の中に凭れ掛かってくる。頬に口づけて、それから手を繋ぎ合って街へ出た。
港町までアインツを送り終えると、辺りは既に夜の色だった。日が落ちるのが早くなってきている。人口灯の光はちらちらとして鬱陶しい。街を背にすると、高台に聳える八階建てのマンションが見えた。あれが私達の住む家だ。
途中一度角を曲がり、バーやカフェの立ち並ぶ通りに足を踏み入れる。路地の終わり、突き当りにある小さなパブの扉に手をかけて、隙間に体を差し込むようにして中に入った。
照明は暗い。奥のソファには見知った人間が座っている。私が控えめに手を振ると、彼は立ち上がって私を迎えた。
「やあ、ツェツィ。よく眠れたかい」
「こんばんは、ハインリヒ。とてもいい目醒めだったわ」
すっきりとした襯衣を着たハインリヒは、少し酔いの回った顔で微笑んだ。右手に持ったジョッキグラスはひたひたと汗を掻いている。
「何か食べるかい、」
「いらない」
「そう」
分厚い眼鏡越しの瞳は柔らかかった。残りのビールを煽って、二人さっさと店を出る。海風は冷たい。
マンションを目指し、並んで歩く。視線を右に逸らすと、遠くにくすんだホテルが目に入った。私達の暮らす港の隣街、光明街の象徴、小児従業員が全てを執成す娯楽施設だ。マンションに住めないR.U.Rと、マンションに住むR.U.Rを買えない男達が一日中彷徨っている、昨日アインツが殺された場所。
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スーパーでハインツのケチャップとかソースを見かける度にハインリヒを思い出します。