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 人の波を掻き分けて、蒸れたマスクの内側で少しだけ息を吸った。
 6階のトイレは混んでるから、と薄暗い階段を抜けてわざわざ5階まで降りる。ひとつ上の階の騒がしさとは正反対に、最後の階段を折りきった瞬間足元から冷気が纏わりついてきて指先の熱を奪った。細くつめたい、うなじが頭をよぎる。
 直人が通う大手予備校は雑居ビルの6階にあった。受験シーズンを向かえ生徒達は皆ぴりぴりとしている。分単位に組まれたスケジュールはこの世界では絶対で、あと5分もしたらまた騒がしく人の多い空間に戻らなければならない。そして米粒のように並んだ数式を解き、黙々と解き、xと動く点Pの招待を見極める。
 5階は小さな事務所が集まっているのか、表札ごとに違う会社名が掲げられていた。時刻は20時を過ぎる所だったが、すりガラスの嵌められた扉の向こうではどこでも絶えず人の気配がしている。楽な仕事がしたいなぁとぼんやりした感想を抱きながら、結露で湿ったトイレのノブを捻った。
「……げ」
 扉の先に居た人物に思わずうめき声のような声を出す。こんな真冬だと言うのに視線の先の人間は顔色一つ変えずに冷水に手を突っ込んでざぶざぶと洗っていた。この人はいつもこうだ。出会った頃から何も変わっちゃいない。
「委員長、なんでこんなところにいるの」
 濡羽色の髪が体の動きにつられて僅か横にそれる。隙間から見えたしかめた眉は間違いなく荻原で、けれどこんな予備校と有限会社しか入っていない雑居ビルにピンポイントで居る訳が無い。関数に翻弄された糖分不足の頭でへろへろと考えるが、答えの出ぬままに視線は出しっぱなしの水とそれを犯す荻原の手に釘付けになる。
「寒いと頻尿にならない?」
「なる。……ってそうじゃなくて。そういう意味の質問じゃないから」
「俺よくコーヒー飲むから尚更なんだよね」
「覗きながら世間話続けるのやめろ」
 さっさと用を済ませて、荻原の隣で手を洗う。氷かと錯覚する程水温は低かった。
「……いつまで洗ってんの」
 以前隣で水に手を浸している荻原にぞっとする。見かねて右手だけを引っ張れば、当たり前だけれども死体のように色が悪かった。
「風邪、引いてるの」
 こちらの質問には答えずに、荻原がそっと直人を伺い見る。凍ったような体と瞳の一方で、尋ねる声音だけは人並みの温度を持って直人を労わっている。
「予防。今の時期は特にやばいから」
「ああ。最近ノロとかインフル流行ってるもんね」
「俺はあんたのほうが色々心配だけど」
「まじで? 結婚する?」
 色々の内には頭も含まれていることを察しない男の脇をさっさと通り抜ける。つれないなぁ、と本当につまらなさそうに拗ねてみせる荻原に一瞬絆されて、後ろを振り向いたのが運の尽きだった。ほんの一瞬だけ唇を掠めた感触に驚いたのも束の間、すぐに目前の氷がにやにやと意地悪い笑みを浮かべる。
「直ちゃんって肩叩かれたら絶対振り向くタイプだよね。そんで頬突かれるの」
「あんたって本当最低」
「叔父の会社があるんだよ。それの手伝い」
 6階に戻ろうと元来た道を引き返せば、当たり前のように荻原は着いてくる。自分の問いかけに間を置いて応えるこの独特な会話のリズムにもすっかり慣れてしまった。
「大変そう」
「そんなでも無いよ。お客さんいない間は暇潰しで何やっても怒られないから」
「俺も暇つぶし?」
「またそういう事言う」
 戻るのを咎めるように、冷えた指先が直人の指先を包む。握り返すか拒むか迷って視線を落として、そこでようやく荻原の指が汚れたままな事に気づいた。
「あんた本当に、何してんの?」
「あー、やっぱ油性だからレモン石鹸だと落ちきらないんだね」
 暢気に返す言葉を聞きながらしげしげと荻原の右手を眺めれば、長時間作業していたことを裏付けるように小指の側面や人差し指の腹に薄い赤や青のインク名残がいくつも見つけられた。石鹸で多少は薄れているものの、元々の肌が白すぎるからひどく目立って、なんだかそれがやけに愛おしい。
「前は専ら読んでたけど、今は書いてるよ」
 親指をそっと撫でられる。冷たかった手のひらが、直人の体温で徐々に温かくなっていく。
「珍しいね。荻原さん、生産するの嫌いそうなのに」
「図工も美術もどんなに頑張っても3だね」
「何かきっかけとかあったの」
「別に。なんとなく、二十年近く文章を享受してて一度も発信側に立った事無いのが不公平だなと思った」
「あんたらしいね」
 人気の無い階段の隅で、右手だけをじゃれつかせる。荻原との思いもよらぬ会合でひどく時間を使ったと思ったが、時刻を見ればまだ3分ほどしか経っていなかった。
「完成したら見せてよ」
 何気なく放った言葉に、神経質に眉間に皺を寄せて荻原は頭を振った。
「無理。多分むこう10年くらいはかかる」
「なんで」
「生産が苦手な人間が完成品を作るのにどれくらいの労力がいるのか君は知らないでしょう」
「もう少し早く練習始めてれば良かったのに」
 10年後ね、と呟いて、右手を解いて階段に足を掛けた。「楽しみにしてる」とだけ言い残して、直人は再び微分積分に立ち向かう。約束ができたから、今日はそれでもう満足だった。

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