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 4限終了のチャイムが鳴る。空腹よりも眠気を覚えた。このまま寝てしまおうかと考えたが、騒がしい教室の中机に突っ伏すのはなんとなく負けた気がして、仕方なく弁当袋片手に席を立つ。少しだけ仮眠をとって、それから昼飯食べればいいかななんて考えつつストーブで温められた教室から廊下へ出れば、昼だというのに鳥肌の立つ寒さで思わずくしゃみが2発出た。
 廊下は人でごった返していた。たった50分間の拘束でさえ若い体には窮屈なのだろう、ぞくぞくと生徒達は狭苦しい教室から冷えた、けれど幾分かは広い廊下へと繰り出す。直人も例外では無かったが、わざわざ結露して湿った渡り廊下に弁当を広げる女子を見て思わず中で食べればいいのに、と率直な感想を抱いた。
「なおちゃん! あれ、コンビニ?」
 下り階段に足を掛けたと同時、すれ違い様購買から戻ってきた翔に声をかけられる。手にはパンがふたつ、それから焼きプリンとリプトンを抱えて。
「めずらしいね、いつもお弁当なのに」
「いや、眠くて。空き教室で仮眠とってくる」
「教室でいいじゃん」
「おまえうるさいからやだ」
 オブラートのオの字も無く正直に言えば、翔は大げさに眉を吊り上げてひどいなぁ、と頬を膨らませた。幼い外見によく似合う仕草だった。
「静かにしてるよ、おれ」
「うそつけ。那須と騒がれると寝たくても眠れない」
「耳栓しとけばいいじゃん」
「持ってんの?」
「持ってない」
「さよなら」
 細い翔の体躯をすり抜けて行く。後ろから、はくじょうものーと声が聞こえた。苦笑して、起きたらそっちに行くと伝える。翔は「それならいいけど、」と、それでも不服そうだった。好きな人が欠けるのを極端に嫌う彼を疎ましくは思わない。
 月に何回、なんて周期的なものじゃないけれど、ふとした瞬間に一人になりたいときがある。落ち込んでいるとか話しかけてくる人がうるさいとかじゃなくて、もっと根源的な部分で穏やかにそう思うのだ。誰にも邪魔されずにひっそりと、どことない疎外感を抱えたまま。
 そんなとき、ここに入学して良かったと心の底から思う。世間でもまだ珍しい単位制を取り入れているこの高校は、授業の度に教室を移動しなければならない。大学と同じ講義体系だ。普通の学校は先生が移動するんですけど、ここでは生徒が移動するんです。だから休み時間はゆっくりしてられませんよ、なんて皮肉じみた言葉を、入学当初担任が言っていた。
 講義の数だけある教室のおかげで、寝るのにぴったりな場所なんて探さなくてもそこら中に見つけられる。これが普通の高校だったら寒い中庭に逃げるしかないんだろうな、なんて。
 階段を降りて2階、すぐ側の空き教室に入る。当たり前に人は無くストーブも付いていなかったが、窓から注ぐ陽の光のおかげで幾分かは暖かかった。窓際の席に腰掛け、机に伏せて目を閉じる。
 まどろみはすぐだった。眠気がゆるゆるとたちのぼり、外と自分とを半透明な幕で隔てていく。たまに聞こえる外の色々に微かに意識が浮上して、またとろとろした眠たさに落ちていく。すぐ側の廊下からはパタパタと人の行き交う足音が絶えずして、中庭に面した窓からは時折華奢な笑い声が弾ける。現実の世界と夢の世界が曖昧になり、瞼の裏は紫がかった薄闇でいっぱいになる。
夢を、見た気がした。

   +++

 

「ん……」
 どのくらい経っただろう。意識が浮上していき、だんだんと外からの刺激を知覚しはじめる。
 まず気付いたのは、鼻の先が冷えていること。それから、足先の痺れ。くしゃみとあくびの半々みたいなやつが出て、寒い。とにかく寒い。寝起きだからなおさら。手探りですぐ側にあった布地を手繰り寄せようとしたけどビクとも動かなくて、渋々薄眼を開いた。
「さむい……」
「窓、閉めようか」
「え?」
 そこでようやく、ここが自宅でないこと、空き教室で仮眠を取っていたことを思い出し、勢いよく上体を起こした。視界にカラスの羽根みたいな黒髪が飛び込んできて、すぐ近くにある瞳と目が合う。
「……委員長」
「おはよう」
 向かい合うように机をくっつけて、荻原がそこにいた。見れば荻原の方だけ窓が半分ほど開けられていて、成る程寒さの原因はこれらしい。けれど冬の空風を受けている荻原は寒さなど微塵も感じていない様子で、ああ、そうだ。この人は夏だってそうだった。茹だるような熱気と蒸した空気の中、一人だけ汗の一滴も掻いてない姿を自分はよく覚えている。だから言ったんだ。
「あんた、生きてるの」
 荻原の眉が僅かに上がった。でもそれは単に直人の言葉に反応しただけで、怒っている訳じゃないのをもう知っている。
「2回目の質問だね」
「だって信じられない。なんで真冬なのに窓開けんの」
「暑いから。――手、もういい?」
 言われてみれば荻原の右手をしっかりと掴んでいた。寝ぼけて掴んだのだろうか、妙な気恥ずかしさもあって慌てて手を離す。
「そんな雑巾触るみたいに」
「や、ごめん。え、てかなんで。なんでここいるの」
「なおちゃんが居たから」
「……仲良くすんな」
「直人くん」
 呼ばれると、訳も無いのに心臓が大きくふくらんだ。低いテナーの声。顔も体も浮世離れしているけれど、何よりもその声が一番直人の彼に対する印象を確かにさせた。荻原と話していると、奇妙に外部の音が消えていく瞬間がある。まるで、荻原から発せられる物しか受け付けられなくなるみたいに。
 荻原ははなから気の良い返事など期待してなかったのか、手元にあるビニール袋からパンを取り出して食べ始めた。包装のカサつく音でかろうじて現実に留まる。ビニールには直人がよく行くコンビニのロゴマークがプリントされていた。
「……生きてたんだ、」
 今さっき自分が投げかけた質問に、自分で答えた。荻原の手にあるそれは、つい最近新商品として出た菓子パンだ。どこのコンビニでも売っている、100円玉で買えてしまうお手軽な食料。この人飯食うんだ、なんて、当たり前のことが自分の中では奇妙な実感を持って喉元を滑り落ちていく。どこに住んでいるのかすらも知らない、委員会だけの薄い繋がりの彼のプライベートを覗き見てしまったような気がして、座りの悪さを覚えた。これが翔や那須だったら疑問すら抱かないはずなのに、荻原が物を食べているという事実が、それに付随する拭えない生活感が、直人の違和感を益々膨らませる。想像してみる。朝、荻原がサラリーマンとOLでごったがえす人の群れをすり抜けながら最寄駅のコンビニに入る姿を。おにぎりかパンかで迷って、パンにして、フェイスアップされた中に新商品のパンがあって、おおうまそう、なんて思いながらいそいそとレジに向かって、支払いはパスモで――――
 ……似合わない。
 がっくりと肩を落とせば、当の本人はどこ吹く風で「どうしたの」なんて聞いてくる。どうしたもこうしたもあるか、と半ばやけくそで睨みつければ、眼鏡の奥の瞳は少々怯みながら窓を閉めた。違う、そうじゃない。
 直人にとって荻原という人間は、例えるなら“少しお洒落な家具”みたいなイメージだった。東急ハンズとかで売っている、造りがしっかりしていて材質からこだわられていて、展示コーナーの傍に『作り手の想い』みたいな売り文句が書かれてあって、憧れたりはするけれど本当に使う人いるの、と疑問に思うような、デザインだけを重視されて作られた物達。ああそうか、密かに憧れていたんだと、疑問だらけの状況でようやく気付く。吝嗇家の母の血をしっかりと受け継いだ自分とは正反対の、生活感はおろか生きている心地さえあやふやな荻原に。
「なんか、委員長に対するイメージが一気に崩れた」
「俺だってコンビニくらい行くよ」
「やだ、行かないでよ。せめてデパ地下のパンにして。それかお弁当」
「それこそ、なんで」荻原が苦笑する。笑い顔さえも綺麗だった。わらうと顔がくしゃくしゃになって『犬みたい』とからかわれる自分とはまるで違う笑い顔。ここでも自分とは正反対だった。
 眉を顰めて、僅かに口角を上げるだけの笑顔は荻原に不思議なほどよく馴染む。笑っているのかそれとも本当は蔑んでいるのか判別のつきにくい表情は、ともすれば笑顔ですらないのかもしれない。
「コンビニとか、ファミレスとか、そういう庶民の行くところにいる荻原さんって想像できない」
 言えば、荻原は一瞬の間を置いて、今度こそ声を上げて笑った。
「なんで笑うんだよ!」
「ごめん、だって、嬉しくて」
「……だからなんで」
「委員長呼びから卒業したから」
 笑った顔も声もすぐにすっと引っ込めて、至極真面目な顔で荻原は呟く。いつの間にか昼食を終えたらしく、空になった包装を弄んでいた。
「委員長から荻原さんになったのは、俺にも所帯臭いところがあるってことが分かったから?」
「別に関係ないし、たまたま」
「ねえ、もう一回呼んでよ。さん付けっていいね」
「だからなんで」
「さっきから疑問多くない? 昼寝終わった瞬間からなんでなんでって、疑問期の幼稚園生みたい」
 あからさまに馬鹿にされれば、あからさまにムカついた。そんな単純な反応も含めて荻原はおかしいのか、愛おしげに直人を眺める。
「一番最初の『なんで』に、答えてあげようか」
 机に身を乗り出して、荻原が囁く。反射的に逃げを打った体は容易く顎を捉えられて動けない。試すように細められた瞳の、ふちにあるまつ毛が長かった。窓の外、薄く雲が切れて再び柔らかな日差しが注いでくる。黒い瞳と相対して濁りのない白目の、ぼやけた境目までもはっきりと見て取れる距離で、唇が言葉を形作る。
「君が好きだから」
 どくん、と、心臓が一際大きくなった。反射的に手で振り払って、瞬きをした瞬間には荻原は既に元の位置に収まっていた。白昼夢かと勘違いするような一瞬の仕草に混乱する傍ら、今しがた放たれた声の輪郭だけが、耳の淵にいつまでもわだかまっているようだった。
「空き教室で寝ている君を偶然見つけた。前から興味があったから、起きたら話でもできないかなって思って」
「……ふざけんなよ」
「ふざけてないよ」
 静かに威圧しても、荻原の返す声はどこまでも真摯だった。透かすように瞳を見た所で相手の本心など分かりやしないけれど、さっきみたく明確にからかいの気持ちを持って言ったわけではないらしかった。変に気を削がれた感じがして、直人は大きくため息を吐きだす。そのまま机に突っ伏して、またふて寝の状態に入った。
「寝ちゃうの? 起きたばかりでしょう」
「誰かさんが変な事言うから疲れた」
「昼ご飯は? 食べたの?」
 問われて、ああそういえばと机の傍らにかけておいたランチバックの中から弁当箱を取り出す。なぜかいっしょに入っていた蜜柑もひっぱりだして、まとめて荻原に押し付けた。
「あげる」
「いいの?」
「腹減ってない」
「ちゃんと食べないと5限で腹鳴るよ」
「鳴らないようがんばる」
「なおちゃん」
「仲良くすんな」
 携帯で時刻を確認すれば、昼休みは残り15分を切っていた。どのくらい寝たのかは分からないけれど、せっかく養った英気を今しがたのやりとりでごっそり奪われてしまった気分だった。自分の腕を枕にして、温まってきた教室の空気に一息をつく。
「荻原さんには、弁当の方が似合うよ」
 そう言って、目を閉じた。視界が薄闇に包まれると、体ごとすっぽり透明なシーツに覆われる感覚がよみがえってくる。まいったな、という呟きに返す言葉は無かったけれど、少しだけすっきりとした。

 

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